III-6
一方その頃、忠等はようやく目的地に辿り着いていた。いつも通り、宏紀の家である。
珍しいこともあるもので、居間の灯りがついていた。親がいるのだろうか。宏紀も、あれ?と首を傾げている。
「マキちゃんかな?」
え?
驚いて、忠等はそこに立ちすくんでしまった。いくら仲の良いお向かいさんでも、無断で入ることはないのではないだろうか、と。鍵を開けながら、宏紀が振り返って笑いかける。
「鍵、預けてるんだ。たまにお夕飯ご馳走してくれるの」
かちゃっと玄関を開け、宏紀がただいまあっと中に向かって叫ぶ。
宏紀の想像は見事的中で、聞き覚えのある太い声が返ってきた。思わず、げ、と忠等が呟いた。
二人の関係を知っていたマキである。宏紀を本当に心配していたマキである。
絶対怒鳴られるだろう。今まで四年間、宏紀を放って何やってたんだ、と必ず言われるだろう。確信していた。
溜息が出る。できれば避けたい事態だが、いつかはあることで、逃げるわけにはいかないことだった。
宏紀にどうしたの?という目で見られて、忠等は腹をくくった。行儀良く靴を脱いで、ばたばたと宏紀は中に入っていく。そのはしゃいだ様子に、忠等は肩をすくめた。
「マキちゃん。もう一人いるんだけど、平気?」
「もう一人? 友達か?」
「マキちゃんも知ってる人」
意地悪そうに笑って。宏紀はそこに顔を出した忠等を振り返った。そこで何が起こるのか、想像はできているのだろう。やはり逃げられそうにない。忠等は大きく深呼吸をした。
「お久しぶりです、マキさん」
声でわかったのだろう。包丁を片手にマキは驚いた表情で振り返った。声も出ないようで、沈黙が続く。湯気を吹く鍋の蓋がかたかた鳴った。
「チュウト、か」
「はい」
答えたとたんに鋭い目で睨まれてしまった。忠等にはしっかり受けとめるより他に手はない。宏紀が、二人がなぜ強い視線で見詰め合っているのかわかっていないらしく、その傍らでくすくすと笑っている。
しばらく睨み合っていると、宏紀の側で炊飯器が突然湯気を吐きだした。それを合図に、マキは包丁を置いてガスレンジの火を止め、忠等に近づいた。胸ぐらを掴まんばかりの勢いで喋りだす。最初から怒鳴り声で。
「今頃のこのこ現われて。何のつもりだ。今まで、どこをほっつき歩いてた!」
「来るなっていったのは俺だけど……」
「宏紀は黙ってろ!!」
ぴくっと肩を震わせ、宏紀はちろっと舌を出して肩をすくめた。忠等はびくっと縮こまったが、それでもなんとか顔はあげたままでいる。
何も答えられなかった。今まで忠等が自問を繰り返していたことを一字一句違わずに言われてしまったから。宏紀の中の大きな心の傷に気付いてしまった忠等に、無責任な言い訳など言えるはずもない。
マキはじっとそんな忠等を見つめた。
「お前がいなくなったせいだろうな。わかるか? 宏紀の心にどれだけの傷がついたか。お前のせいだといわれても文句は言えないんだぞ」
少し落ち着いたマキの言葉に、忠等ははっきり頷いた。そのきりっとした表情にマキは純粋に驚いた。
「はい。どれだけの、と言われると、まだすべて把握しきったわけじゃありませんから何とも言えませんが、でかい傷があることはわかっています。
宏紀は隠し上手ですから、いつすべて把握できるかわかりません。でも俺は、俺自身の目ですべてを見極めた上で、全部治していきたいと思っています。
誰の手も借りず、というか、借りると余計ややこしくなりそうですから、俺と宏紀と二人で全部治してしまおうと考えてます」
宏紀の前で言うのは少々酷なことだったかもしれない。忠等が宏紀の方を見やると、宏紀は今まで笑っていたはずの顔を強ばらせて俯いていた。多分泣きそうになっているのを必死に堪えているのだろう。
「宏紀。二階行ってて」
見ているこっちが辛い。そう思って忠等はそう言った。宏紀はびっくりして忠等を見上げ、そして嫌だと首を振った。
じゃあこっちにおいで、と言ってやると、宏紀は駆け寄ってきて忠等の腕にしがみついた。猫のように身をすり寄せてくる。
「宏紀の心の傷、いつ気が付いた?」
どうやら宏紀は本気で忠等を想っているらしい、と思ったらしくマキは声を和らげた。その問いに、忠等はしっかりと宏紀を抱き寄せて答える。
「左手首を見付けたときです。何しろ目の前でやられましたから」
自殺未遂。その言葉は忠等の口から出てこなかった。目の前に本人がいて言える単語じゃない。
またやったか、とマキは溜息をついた。ぐっとつまって、宏紀はうなだれて、ごめんなさいと呟く。
忠等がその頭を撫でてやった。謝ることじゃない、と。何も悪いことはしていないのだから、と。
宏紀が軽く忠等を抱きしめる。恐いのだろうか、宏紀はかすかに震えていた。
「お前たち、どこで再会したんだ?」
宏紀を見る忠等のやわらかな目を見て、忠等を信じることにしたらしい。マキは二人に背を向けて再び包丁を取った。ガスレンジの火をつけて。
「学校です。宏紀も弟もサッカー好きで影響を受けまして、高校に入ってサッカーを始めたんです。そうしたらそこに宏紀が入ってきて」
「なるほどね。不可抗力って奴だ」
とんとんとリズムよくキュウリを切りながら、マキは呟いた。白い無地のエプロンが結構似合っている。鍋から良い匂いが漂ってきた。
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