III-4
安心して眠った宏紀に腕枕をしてやって、宏紀を守るように眠りに落ちた忠等は、ふと夜中に目を覚ました。
腕の中にいるはずの宏紀がいない。ドアは開け放たれ、下から光が上ってきていた。辛うじて見えた壁掛け時計は午前四時を示している。
便所かな、と思ってしばらく待ってみるが、いっこうに戻ってこない。三分待って忠等は心配になった。
昔は一度眠ったら朝まで起きなかった宏紀だ。こんな夜中に目を覚ますなんて珍しいこともあるものだと思っていたところだった。
むくっと起き上がり、とりあえずパジャマを着て忠等は一階へ下りてみた。光は居間の室内灯のようだった。
「宏紀?」
返事は……ない。
近づくと、ソファに座っている人影が見えた。ちゃっ、と音をたててガラス戸を開ける。それは宏紀だった。
眠っているのかと近づいて、ぐったりした宏紀の左腕に赤いものを見た。驚いて駆け寄る。
「宏紀!?」
血、だった。
側にカッターナイフも血染めで転がっていた。左手首から、血はどくどくと溢れ出ている。切ったばかりなのか、固まっているようには見えない。傷口の下の床には血溜りができていた。
昔、家事を手伝っていたのが、ここで唯一の幸いだった。
布巾を以前と同じ棚から引きだし、宏紀の左手首に縛り付ける。そして、気を失った宏紀を起こしにかかった。手首は心臓より高い位置に持ち上げてやって。
パニックしていたにしてはしっかり応急処置ができていた。揺すられて、耳元で名前を呼ばれ、宏紀がやっと目を覚ます。
「チュ……ト、さ……?」
ぼんやりと忠等を見上げ、宏紀は身体を起こそうとする。それを押さえ付けて、ダメだと叱って。
やがて、はっきりしてきた頭で、自分の左手に起きたことを認識したらしい。痛くなかったのか、びっくりしたように自分の手を見つめている。
「俺……またやったんだ」
「また、なのか? 俺がここにいても、ダメ?」
え?と宏紀は忠等を見つめ、あわてて左手を取り返した。それを胸に抱き抱える宏紀を見て、忠等は目で溜息をついた。
「ちゃんと手当てしよう。救急箱どこ?」
再び起きようとする宏紀を押さえ付け、忠等は立ち上がる。食器棚の上にそれはあった。ごみ箱のうえでホコリを叩いて、宏紀の元へ戻る。
宏紀は膝を抱えて泣いていた。声を出さずに、ひくっひくっと肩を震わせて。
「無意識だったのか?」
少し躊躇って、宏紀はこくっと頷いた。
手当ての前に宏紀の心を落ち着かせなければと判断し、忠等がその頭を引き寄せる。
昔と変わらず小さな頭。身長は伸びたが相変わらず可愛い外見。
中身は以前よりさらに複雑になっていた。一つ一つ、解していかなければいけない。どのくらい時間がかかるか。見当もつかなかった。
残された時間はあと一年もない。一年後、この町にいるとは限らないのだ。もしかしたら遠くの大学に行ってしまうかも知れない。
そう考えたら、突然恐くなった。また離れ離れになる。今度は忠等の意志で。残される宏紀が心配でならない。
「ごめん、なさい。俺、チュウトさんに心配かけたくなかったのに。ごめんなさい」
ばか、と囁いてやった。優しい声で、馬鹿だな、お前は、と。
忠等は年上なのだ。二才も。いつもいつも宏紀に心配されていることは、実は結構自己嫌悪の原因だった。
「いいんだよ、心配させて。さ、手当てして、またちゃんとセックスしよう」
え?と宏紀は忠等を見上げた。心底驚いている表情に、忠等は思わず笑う。
「気持ち、高ぶってちゃ眠れないだろう? 眠らせてあげる。ほら、手、出して」
セックスすると落ち着く宏紀だ。わかってるよ、とさり気なく教えて。宏紀は真っ赤になって俯いた。
左手、とまた言われて、おずおずと差し出す。消毒液に浸した脱脂綿で血を拭き取り、傷薬をつけたガーゼを貼って、包帯を巻いて。
手当ての手際の良さに、宏紀は驚いていた。何驚いてんだ、と忠等は苦笑した。中学生時代は喧嘩の度に仲間たちの怪我の手当てをしていたのだ。慣れたものである。
包帯を巻きながら、きつくないかと聞いてやって。これでよし、と結び目を軽くたたく。
「さ、寝よう」
救急箱を片付けて、忠等は宏紀を助け起こし部屋を出た。忠等はこの時、宏紀の心の傷を完全に治す決意を固めた。
焦らすように愛撫を与え、疲れ果てた宏紀を寝かしつけて、忠等は何だか寝つけずにいた。
もっと、と忠等を求めてくる宏紀は、やはり昔のままに見える。だが、忠等が変われないでいた間、宏紀は確実に変化していたのだ。悪いほうへ悪いほうへ。
自分がここにいてもダメなのか。そう思って辛くなった。宏紀の心の傷は治せるのだろうか。自信がない。
安らかな寝息をたてる宏紀がとてつもなく愛しくて、忠等は彼を抱きしめた。
「チュウトさん……」
突然宏紀に呟かれて、びっくりして忠等は腕の中の彼を見つめる。
続いて聞こえてきたのはやはり安らかな寝息だった。寝言か、と呟いてほっとした。よしよしと頭を撫でてやって。
可愛い、と思った。こんな可愛い子を傷つけているのが自分なのだと思って、忠等は自分の未熟さに腹がたった。
少なくともその一端を担っているのは事実なのだ。辛かった。そして、罪滅ぼしをしようと思った。
愛しているから。もうこれ以上苦しませたくないから。心の傷は自分が責任を持って治す。そう決めたのだった。
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