地底生活のすすめ 1
永遠に続く変化のない日々に倦んでいた魔物たちにとって、その存在は変化をもたらす恵みの神といって過言ではない。
五十年の歳月を経て身に纏う色を変え戻ってきた漆黒の天使は、大層好奇心旺盛で面倒見の良い人だった。
何しろ、格下であるはずの魔物や上位の魔族たちと楽しそうに戯れるのだ。
恋人である魔王の嫉妬はかうものの、遊んでいるだけであることは双方共に承知の上で、深刻な亀裂に至らないどころか微笑ましく見守られていたりする。
彼が翼を漆黒に変えて約一年。
彼の手によって描かれた魔物の姿はすでに全種類に及んでおり、肖像画こそないものの魔族たちの日常をも描かれていることが、彼と魔物たちの垣根を取り払った要因として大きい。
彼を母と慕う魔物は半数を超え、どこへ行っても何をしても大歓迎を受けた。
心無い行為を彼自身が嫌うため、嫌われるだけの口実がないとも言えるのだが。
その日、漆黒の天使カズマは魔王城の一階東に設置されたリネン室にいた。
室とはいうものの外庭に面した開放的な空間で、洗濯用にプールが設置され、庭を流れる川の一部を引き入れて水を取込、下流にろ過装置が設置されていてやがて川に戻っていく天然の循環設備である。
洗濯機というほどの全自動ではないが、水の入れ替えに苦労しない工夫がそれなりの便利さを感じさせる。
カズマの隣にはカイムの姿があって、二人は揃ってプールに向かっていた。大きな翼は仕舞われていて、小柄な後姿はまるで少年のようだ。
二人の間には大きな籠が置かれていて、中にはたっぷりの布が丸めて入れられている。
一枚一枚広げては水に浸けていく。
布を入れると水に色が染み出ているところから、染物をしているのだとわかった。
まだ縫製していない状態なので、水に広がった布はかなりの大きさだ。
布には固形油脂が塗りつけてあったようで、水の中でもそれをはじいて水玉が出来ていた。
刷毛でこすり落とすと、鮮やかな模様が現れた。
「へぇ。キレイだなぁ。ホント、カズマって物知りだ」
刺繍は得意だったカイムはどうやら布を直に染めるという発想を今までしなかったようで、感心した声を上げた。
そもそも、この世界における布は糸を織って作るものではなく創造主である魔王の創作物だ。
そのため、柔らかく肌触りも良い布的な存在であっても、転生して生まれ育った別の世界でカズマが良く知る布とはまったくことなる、未知の物質といって良い代物だった。
したがって、布にも糸にも最初から色がついているのだ。
持って来た布を大体洗い終えた頃、洗濯物をたっぷり積んだ籠を抱えた女性の魔族たちがリネン室に現れた。
話をしながら賑やかに入ってきて、先客である二人を発見したらしい。
皆が大慌てで居住まいを正す。
彼女たちを振り返って、カズマは魔王も魅了した穏やかな笑みをふわりと表情にのせた。
「あぁ、ごめんね。すぐ終わるからもうちょっと待ってて」
「いえ、お邪魔して申し訳ありません。出直しますから……」
「大丈夫、大丈夫。そこにいて。五分で終わらせる」
残り一枚に取り掛かっていたため、本当に五分程度で終わる分量だった。
部屋の隅に困ったように固まって佇む彼女たちをそのまま待たせておいて、カズマとカイムが作業のスピードを上げる。
こちらはほとんど遊んでいるようなものだが、彼女たちにはそれが城を住居とすることと引き換えに課せられた仕事なのだ。邪魔するわけにはいかないだろう。
ぴったり五分で片付けて、カイムは濡れたままの布がどっさり入った籠を抱えあげた。
たっぷりと水を含んで持って来たときの数倍の重さに膨れ上がっているが、魔王にこそ敵わないものの最上位魔族であるカイムにはこれを軽減する能力がしっかり備わっている。
そのため、カズマの細い腕を頼ろうとは微塵も考えていないのだ。
カズマもまた、ここに来る時にも重い物を持たせるつもりはないとカイムに拒絶されて来ていたから、無駄な申し出はしなかった。
代わりに、待っていてくれた彼女たちに愛想を振りまく。
「お待たせしてごめんね。いつもお洗濯ありがとう」
天使たちは自らの役割をこなすことを当然のものと考え、他者にも同じ考えを抱いているものだ。
一方魔物たちも、個を基本として生活しているおかげで他者との関わりをあまり重んじていない。
そのため、天上においても地底においても、ありがとう、という言葉を口にする者などほぼ皆無だった。
言葉が存在していること自体が不思議だといえるほどに。
カズマはその言葉を周囲に振りまく人の筆頭だ。
それが相手にとっての仕事だとしても、自分や身の回りについて作業してくれる相手に対しては謝意を述べる。
ごめんとありがとうは彼の口癖に近い。
自分に課された仕事であっても、そうして行われた作業によって利を得た者にありがとうと礼を言われることが、喜びと次の仕事に対するやる気に繋がると改めて実感が浸透し始めたのだろう。
カズマの始めた一言運動が上位魔族の中に波及し始めている。
別に咎めることではないので最上位たちも黙って見ているだけだし、気持ちよく仕事ができることは良いことだ。
じゃあね、と言ってヒラヒラと手を振ってカズマが姿を消すと、リネン室からは途端に黄色い歓声が上がった。
最上位天使という正体は周知されていながらも、漆黒の天使はアイドル的存在なのだ。
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