50日目




 魔王の寝室で擬似太陽の光を浴びながら、アウルアンティウスは日がな一日ベッドの上でぼんやり過ごしていた。

 アスタロトが老女の姿になってからだから、これで十日目だ。

 それ以前は書庫や中庭に好んで出かけていただけに、こうして閉じ籠られると心配にもなる。

 夜になって寝室に戻ったルーファウスは、ベッドの上に座ったままの天使を後ろから抱き締めてみた。
 ルーファウスに気付かなかったのか、アウルアンティウスはビクッと身体を震わせた。

「最近出歩かないな。どうした。何かあったのか?」

 はじめの内は放っておいてくれたルーファウスが心配そうに声をかけてくれる。
 その気遣いに今更ながら気付いて、アウルアンティウスは胸が高鳴ったのを自覚した。

 生まれ故郷では感じたことのなかった温かな感情だ。
 慈悲だの博愛だのいうお題目を並べ立てるのは天上の領分だが、地底の自然発生的心遣いの方が温かいと思うのは、受け手の気持ちによるものなのだろうか。

「……ルー」

「ん?」

「貴方にとって、私は虜囚のままですか?」

 それはルーファウスから見れば今更な質問だ。
 そもそも最初からアウルアンティウスは捕虜などではなく、気に入った餌なのだから。

 ただし、確かにその「気に入った」の意味合いが当初と違って来ているのは事実だ。

 魔物は持ち得ない穏やかな気性と相手を選ばない博愛の精神に、その時対象とした相手を深く思いやり最善を尽くそうとする慈愛の心。

 損得勘定無しに行動しようとする様は、規約の範囲からはみ出ることを嫌う天使には珍しい。
 一方を救い上げれば他方が沈むのは自然の成り行きで、だからこそ天使は一方に対して深入りすることを徹底して避ける。
 だが、アウルアンティウスはそこで諦めないのだ。
 双方を合わせて救い上げてくれる。

 おそらくそれは性分なのだろう。
 けれど、だからこそ相手を選ばない気持ちが見る者を心地好い気分にさせるのだ。

 ルーファウスもまた、アウルアンティウスが持つ気性に惚れこんだ一人だ。
 自らを省みない慈愛の精神を、守ってやりたくなる。

 その思いは、恋情にも通じていたのだろう。

 今では、手放せないと断言できる。
 魔王が持つ感情としてこれほど似合わないものもないが、愛していると言っても嘘ではない。

 だから、何を今更と笑うのは止めて、さらさらの髪に口づけた。

「お前は俺が今唯一気に入っている餌だ。それでは不服か?」

 優しげな声色で宥めるように答えられて、アウルアンティウスは少し慌てて首を振り否定する。
 囚われたその時から餌という評価は一貫している。
 今更と言われなかっただけ、気遣ってもらえるくらいには気に入られているのだと自覚した。

 それでも、アウルアンティウスの悩みは晴れないのだが。

「餌としてでも気に入られているのが嬉しいと思える私は、どこかおかしいのだろうか……」

「おかしくなんかないだろ。もっと溺れろよ。俺に抱かれなきゃいられないくらいにな」

「そうなっては、天に帰れない」

「帰さねぇ。お前は俺の腕の中で永遠に暮らせば良いんだ」

 強い口調でそう言われて驚いた。
 気に入った餌程度を相手にするには強すぎる感情。

 いったいどんな心境なのかと確かめるように振り返って、気まずい表情のルーファウスと目が合った。

 途端、その誤魔化されていた真意に気がついた。

 気に入っている、どころの話ではない。
 すでに執着の域なのだと。

「ルー……。それは、恋情と理解しても構わない?」

「……お前はどうなんだ。天に帰ることばかり言いやがっ……」

「帰りたくないんです。
 立場を考えれば、一刻も早く帰らなくてはならないのに。
 この世界から……貴方から離れたくない。
 離れられない。
 いつまでもこうして抱き締められていたい」

 言いきった途端、首筋に噛みつかれた。柔く歯を立てられる。
 場所が場所だけに生命の危機を感じなければならないはずなのに、背筋を這い上がる感覚は紛れもない快感。

「ぁんっ……」

「だったらずっとここにいれば良い。天になんか帰さねぇ。お前は永遠に俺のものだ」

 グッと引き寄せ、息もさせないほどに強く抱き締める。
 所有物扱いの断言はそれでも、無機物としての扱いには感じられない。
 どちらかというならきっと独占欲だ。

「本当に? ずっとここにいても良いの?」

「いても良い、じゃねぇ。いなきゃいけないんだ。俺の腕の中だけで、俺が作る疑似太陽を糧に生きろ。永遠に」

 気が遠くなるほどに永い時を。

「お前の巣は俺の腕の中だ」

「ルー……」

「愛してる」

 長い銀糸の髪に顔を埋め、片方の耳だけに囁く言葉。
 相手の目を見て言うのは照れくさい。
 けれど、言わずにはいられない。

 はっきりと聞こえたその言葉を咄嗟に否定しかけた。
 何しろ相手は愛とは両極端にいるはずの魔王だ。

 けれど、その言葉を信じたい気持ちが邪魔をした。
 こんなに強く抱き締めてくれる人の愛の言葉を、否定し切れなかった。

「お前を愛しているよ、アウル。心を知らない聖王になど返してやるものか」

 自と他と個を強く意識する地底世界だからこそ持ち得る、他への強い執着心。
 それはルーファウスの言う愛の原動力だ。

 理解すれば、その激しい情愛もくすぐったく心地好い。

「貴方の腕が私の巣?」

「そうだ。他は認めない」

「やっと見つけた。この翼を休められる住処」

 一瞬抱き締める腕の力が緩んだ隙に身体を反転させて、ルーファウスの身体に自分から抱き付く。
 しっかり抱き止めてくれる腕がどことなく落ち着かなかった自分を支えてくれているのがわかる。

 まったく自覚していなかったが、どうやら自分が無意識に探していたのはこうして支えてくれる力強い腕であり、翼を休める巣であったらしい。
 見つけた途端、手放せなくなったのだから。

「愛しているかはわからないけれど。いつまでもここにいさせて欲しい」

「もちろんだ。永遠をここで過ごせ。同じ言葉はそのうち返してくれれば良い」

 愛している。

 静かに響いて心の奥深くに沈みこむ。

 まるで漂う浮舟を繋ぎ留める錨のように。

 そのままベッドに押し倒されるのに従って、そっと目を閉じる。

 魔王は天使の無意識の仕草に誘われるままに唇を合わせ、舌を絡めて吸い上げた。
 甘い吐息を隠さず気持ち良さそうに微笑む天使に、劣情を煽られる。

 今夜は激しく長い夜になりそうだ。





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