7日目
魔王の寝室で疑似太陽で日向ぼっこしながら、書庫から借りてきた書籍を楽しんでいる時だった。
この世界の主である魔王が部屋に戻ってきた。
宰相に呼ばれて仕事にでていたはずの人がずいぶん早く戻ったのに少し驚いて、アウルアンティウスは本を閉じて立ち上がる。
ルーファウスはその六翼の天使に手を伸ばした。
「お前、食事したことはあるか?」
生き物は何かしら外部からエネルギーのもとを取り込んでいる。
天使とて例外ではなく、ルーファウスもそれが光合成によるということは知っているはずだ。
何しろアウルアンティウスが光合成するためにとこの部屋内に浮かぶ疑似太陽をくれた張本人である。
ならば、その問いかけは光合成とは違うものを指しているはずだが。
「食事?」
「経口食だ。天使も食えないわけではないだろう?」
必要かといえば不要だがそれによるエネルギーの摂取も確かに可能ではある。
何が目的で問われたのかは不明でアウルアンティウスは小さく首を傾げたが。
「可能だが、したことはない」
「じゃあ初体験だ。来いよ。旨いもん食わせてやる」
この魔物の世界にやって来て一週間。
初体験の連続であるアウルアンティウスは嬉々とする気持ちを表情から押し隠して魔王の手を取った。
連れだって赴いた先は調理場と繋がった食堂だった。
そもそも獣そのままの魔物は城内で生活せず、高い知能を持った魔族と呼ばれる上位以上の魔物は生気や精気を糧とする。
そのため食堂など不要なものであり、調理場に至っては魔物のいずれにも無用の長物だ。
天上世界は生き物全てが光合成だからやはり調理場も食堂も存在せず、アウルアンティウスはキョロキョロと室内を見回してしまった。
長机と椅子が整然と並べられた部屋も、腰の高さの台や小型の火鉢のようなものを備え付けた棚などが置かれて大小様々な道具が用意された部屋も、アウルアンティウスには馴染みのないものだ。
地上世界ならば珍しくない部屋も最上位天使の義務として天上世界に閉じ籠らざるを得なかったアウルアンティウスには認識外だった。
食堂には城内で暮らす最上位魔族が揃っていた。
アモンはワゴンに載せた皿を食卓に移動していて、カイムがこれを手伝っている。
他は座った状態で談笑中のようだ。
皿からはずいぶん香ばしい匂いがしている。
「アモンが料理好きでな。こうして何か作って供してくれる。
なかなか旨いぞ。お前なら気に入るはずだ」
それは新しい物を目にしては興味を向けるアウルアンティウスの様子を観察したルーファウスだからこその断言で。
アウルアンティウスもまた、そうなのかと素直に受け止めている。
食卓の皿には大皿に山盛りの蒸し饅頭と一人一皿のピリ辛ソースが用意されている。
アウルアンティウスも含む六人分。
アモンとカイムが席につくのを待って、アウルアンティウスを除く五人分の手が大皿の饅頭に伸ばされた。
それぞれの手が一つずつ饅頭を取って戻っていくのを真似て、アウルアンティウスもそれを手に取った。
手元に引き寄せたものの、これをどうしたら良いのかわからない。
そもそも食べるという概念がないのだ。
口に運んだ後何をどうしたら食べるという行為になるのかという根本がわからないのでは、話にならない。
周りがする行動をまずは眺めて学習する。
そして、理解できたらそれを実行に移す。
ものの覚え方の基本だ。
この地底の世界にやって来てからは何かにつけて繰り返す学習法である。
皆がそれぞれに満足げに食事を楽しんでいるのをしばらく観察して理解したらしく、手元の饅頭にかぶりついた。
ふんわりとしてかすかに弾力もあるそれを一口大に噛みきる。
中にふんだんに含まれていた熱い汁が口の中に広がった。
旨味と僅かな塩味が感じられる。
次に歯を何度か噛み合わせる。
噛む度に口内の塊が細かく分かれていくのが分かる。
何度も噛んで細かくなった饅頭の欠片をこくりと飲み込んだ。
喉を通った先は知覚できないらしい。
後に残るのは少しの甘味と塩味を含む旨味と作った人の温かい感情。
この感覚を表現する言葉は自ずと思いついた。
「美味しい……」
いつの間にか全員の注目を集めていたようだ。
その彼らがそれぞれ嬉しそうに表情を綻ばせた。
中でもアモンの喜びようといったらない。
ぱあっと花開くような満面の笑みだ。
「このソースを少し付けて食ってみろよ。辛いから気をつけろよ」
この、と言いながら手元の皿を示されて、アウルアンティウスは自分の手元にもある同じ皿を見下ろす。
それからルーファウスをちらりと見やった。
手本が欲しいようだとすぐに察したルーファウスが、手に持っていた食べかけを皿のソースに少し付けてかじって見せる。
真似をしてソースを少し付けてから口に運んでみて、アウルアンティウスは子供っぽいびっくりした顔をした。
味がずいぶん変わったのに驚いたのだろうというのがよく分かる。
ルーファウスの断言通りに食事を気に入ったことが多少悔しいが、悔しいからと食事をやめる気にもならず。
ふわりと柔らかい笑みを表情にのせて幸せそうに蒸し饅頭を頬張るアウルアンティウスに居合わせた全員が和まされるのだった。
その夜。
地底世界の天井を巡る疑似太陽と同じように光ったり暗くなったりする寝室の疑似太陽をなんとなくぼんやり見上げていたアウルアンティウスを、ルーファウスはその背中から抱き抱えた。
邪魔になるはずの六枚羽をうまく避けている。
何事かと不思議そうに振り返ったアウルアンティウスに、ルーファウスは苦笑して見せる。
「他にやってみたいことなんかはないか?
天では制約でできなかったこともここでは自由だ」
それはきっと、新しい経験を楽しんでいるアウルアンティウスをもっと楽しませてやろうという意図なのだろうとは分かる。
だが、その意図に至る経緯が不明だ。
そろそろ忘れかけているのだが、一応アウルアンティウスは捕虜なのだ。
捕虜を楽しませてくれる捕縛者はまずいない。
「何故?」
「お前の嬉しそうな顔をもっと見たい。天に帰りたいっての以外ならなんでも叶えてやる。だから、ずっとここにいろよ」
「……天の戦天使だぞ?」
「だから何だ。お前が天に帰らなきゃ、天の遠征もなくなるだろう?
魔物どもはわざわざ出かけて行くほど天に興味がないしな。戦乱もなくなって良いことずくめじゃねぇか」
そんなルーファウスの主張は魔王らしくなく平和的で、アウルアンティウスの穏やかな性格に心地良い。
それに、天上世界にいた頃からアウルアンティウスが思っていた事そのものだったのだ。
「……そうだな」
否定する必要もない。
それに案外この世界がアウルアンティウスにとっても居心地が良いのだし。
「しばらく厄介になるよ」
「何だ。しばらくとか言わないでずっといろよ」
「それは無理だ。理に反する」
「天使の数さえ変わらなきゃ、どこにいても構やしねぇだろ」
「……? そうなのか?」
魔王という地底世界の創造主に断言されて、アウルアンティウスはさすがに納得できずにきょとんと子供のような表情をしてしまい。
妙に似合う可愛いらしい仕草にルーファウスは思わず声を上げて笑ってしまった。
「どれだけここにいられるか試してみたら良いさ。
俺にとっても旨い餌だしな。大事にしてやるぞ」
餌呼ばわりにはむっとするものの確かにその通りの立場だ。
軽いため息をついて諦めて、小さく頷いて答えるアウルアンティウスだった。
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