3
純白の翼をはためかせ、赤紫色の空を舞う。
リュシフェルはその時、行方不明になった同胞を探していた。
魔に満ちたこの地底世界で天使の存在は実にわかりやすい。
ただ、随分と深い場所にいるようで、上位天使の力では踏み込めなかったのだ。
地底を照らす擬似太陽は、偽者ではあるが光合成には十分な熱量を持ち、薄暗いながらも地底の広い世界をあまねく照らしている。
遠征に来るときにはまったく気にも留めなかったが、この世界はこの世界なりに秩序を持つ穏やかな世界だった。
見下ろす大地は荒廃した赤茶色だが、所々に見える様々な生き物たちはそれぞれのコミュニティの中でのんびりと暮らしているようだ。
きっと辛い思いをしているであろう天使を救うために急いでいるものの、眼下に広がる風景は何とも不思議だった。
そうして穏やかに暮らしている生き物たちが、天上世界から遠征して来る天使たちの討伐対象なのだから。
地は天を忌み天は地を憎む理。
それゆえの討伐ではあるものの、果たしてそれは本当に必要なのか。
疑問に思えてくる。
天使の囚われた場所は、地底奥深い場所であるらしい。
荒地を越え、点在する森を横目に深く深く導かれる。
やがて見えたのは、広い森と豪奢な屋敷を点々と従える巨大な城だった。
この敷地面積と、天の尖塔とは違い低層だが各フロアの床面積が膨大なその建造物の大きさから、魔王の住まう城であることは疑いようもない。
「何というところに……」
これではさすがの自分でも手を出すのに躊躇う、とリュシフェルは肩を落とす。
とはいえ、ここまで来て諦めて帰るわけにもいかず。
城の中庭に面した広めのテラスに降り立った。
むき出しの石造りではあるが平らに整えられてテラスとして成り立っている。
テーブルセットを持ち出せば豊かな中庭を見下ろして優雅なティータイムも楽しめそうだ。
ともかくこのテラスに繋がる入り口から城中に忍び込もうと振り返ったところで、リュシフェルの足が止まった。
そこにいたのは、深紅の髪の男だった。
逞しい体躯で背丈も随分と高い。
リュシフェルから見ても頭一つ分は高そうだ。
その男は、観音開きに開いたガラス戸の戸口に立ち、腕を組んで柱に寄りかかり、リュシフェルを面白そうに眺めていた。
「ようこそ我が城へ。その姿は戦天使殿かな?」
「……魔王」
「いかにも。
しかし、お客人ならば正面から堂々と尋ねて来れば宜しかろう。
それとも、天上の建造物には玄関がないのかな?」
何しろ鳥だしね、とからかって魔王はくすくすと楽しそうに笑っている。
機嫌を損ねている様子もないところは逆に不気味ですらあったが。
「ここに囚われた天使を迎えに来たのだが、居場所をご存知だろうか?」
ともかく見つかってしまったのは仕方がないと諦めて、この世界を統治する人物に問いかける。
本人が咎めないのなら謝罪の必要もないだろうと判断したのだが、その問いかけのどこが気に入ったのか、魔王はまたニヤリと笑った。
「知っているとも。私のベッドでお休み中だ。
しかし、せっかくの貴重な食餌をタダで返すわけにはいかないな」
「対価を要求するか」
「こちらに囚われたのはその天使の不注意だろう?
拾った者として当然の権利だと思うがな」
天使が上位以上の魔族には美味なえさであることは天使の側にも知られている。
権利を主張されれば、リュシフェルにはそれを否定する理由が思いつけない。おかげで、とっさに言い返せずに黙り込んでしまった。
黙ってしまったリュシフェルに対して魔王は心底楽しそうにニヤニヤと笑うだけだった。
返答を急かそうともせず、のんびりと待ち構えている仕草は余裕を感じさせる。
黙っていても埒が明かない。リュシフェルはその天使を連れ戻す使命を帯びている。
勇気を振り絞るように深い溜息をつき、リュシフェルは魔王を見つめ返した。
「……要求は?」
「お前が身代わりになれば良い」
つまり、穢れのない最上位天使の純潔を差し出せ、というわけだ。
格下の天使にそこまでする価値があるのか、まるで試しているような要求を聞きリュシフェルはさすがに絶句した。
戸惑う様子を見せるリュシフェルを魔王は鼻で笑う。
「たかが上位天使一匹に最上位のお前が身を投げ出す必要などなかろう。諦めて天に帰りな」
それは確かに天使をバカにした物言いだったのだろう。
だが、慈愛はあっても贔屓はしない天の理に照らせば、魔王のからかいは至極最もだった。
しかし、リュシフェルはそこで引き下がるという選択肢を選ばなかった。
「……わかった。替わりに私がお前の餌になってやる。ミトラを天に返せ」
さすがにリュシフェルの返答には魔王も驚いた。
囚われているのは上位天使だが、リュシフェルは天使の中でも頂点に近い立場だ。その価値は等価ではない。
人質がある分魔王が有利とはいえ、物事には相応という物がある。この取引は明らかに不相応だ。
「……お前、それはさすがに安売りしすぎじゃねぇか?」
「要求したのはお前だろう、魔王」
その本人に咎められる謂れはない。
せいぜい不機嫌そうにそっぽを向く仕草が意外に可愛らしいのに気がついて、魔王は思わず目元を和らげた。
「交渉成立だな。あの天使はうちの門番に送らせよう」
「身の安全は保証できるのだろうな?」
「あの二人は他に手は出さない。取引は正当なものだ。魔物にもそれなりの誠意はあるさ」
おいで、と呼ばれて差し出された手を見つめ、リュシフェルは今日何度目かの溜息をつくと、その手を取った。
思ったよりもその手は暖かく、魔物らしからぬ理性的な会話に調子を狂わされる。
天上世界から見下ろす地底はいかにも野蛮で本能的思考によって成り立っているものと思われていた。
だが、実際の地底世界はそれなりに穏やかで秩序もあって、その支配者もまた賢王と呼ばれるに相応しい物言いを展開して見せるのだ。
天使の眼で見てもなかなかに良い環境に思えて、リュシフェルは認識の再考を迫られた気分だ。
「賓客として扱ってやるよ。ゆっくりしていくと良い」
いずれは天上世界に返す時が来ることを前提にした魔王の言葉にやはり軽い違和感を覚えつつ、リュシフェルは素直に頷いた。
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