14
一週間で、哲夫の精神的な疲れはピークに達していた。
それは、指輪をはずせば済む問題ではなく、一度それをお披露目してしまった以上、避けられない問題だった。そして、哲夫にも宏春にも、どうしようもないのである。
土曜日の午後。
診察が終わった頃を見計らって、哲夫は家を出る準備をするため、家族の団欒の場である居間を出る。それは、毎週土曜日に一分一秒変わることなく繰り返されてきた行動で、一緒にいた両親とも、特に気にした様子もない。
一度自室へ引っ込んだ哲夫は、再び居間に顔を出す。
「じゃ、行ってくる」
「今日は宏春君を連れて帰ってらっしゃいね」
「わかってる。高級すき焼き肉をもらったから、だろ?」
そうよぉ、と肯定して答える母の表情は、実にホクホク顔だ。父の仕事の関係で、いろいろなもらい物をする家なのだが、それでも霜降りすき焼き肉など珍しい高級品だ。賞味期限ギリギリの、もらい物のおすそ分けだとしても、嬉しいことには違いない。
と、いよいよ出かけようと靴箱を開けた途端に、チャイムが鳴った。この家は、一階が事務所になっているので、営業日外でも客が来ることがある。したがって、たとえ誰かが玄関先にいても、インターホンから答えるのが通例になっていた。
出かけられなくなって、哲夫は居間に戻る。
「……いえ。主人もおりますが。少々お待ちください」
受け答えをしていた母が、インターホンの受話ボタンを押して、こちらを振り返った。どうやら、普通の客ではないらしいが。
「あなた。青山さんとおっしゃる会計士の方、ご存知?」
「青山? どうかな。知り合いに一人いることはいるが。名前は?」
「さぁ。青山さんとしかおっしゃらないのよ」
それは、実に怪しい来客だ。が、客には客らしい。通すように父親が判断して、母は玄関へ迎えに出る。客が来ることを知って、哲夫はそっと居間を出て、自室へ戻った。自分には関係のない相手だ。客人が客間へ通されてから、自分は出かければ良い。
しばらくして、階段を上ってくる音に哲夫は顔を上げた。さらに、戸をノックする音がする。
『てっちゃん。ちょっと良い?』
それは、お客様に対応しているはずの、母の声だ。答えて戸を開けると、母は困った顔でそこに立っていた。
「お客様がね、娘さんを連れておいでなんだけれど。てっちゃんの知っている人かどうか、確認してもらえる?」
娘? 聞き返し、哲夫ははっと息を呑んだ。青山という姓を持つ女性ならば、良く知っている。しかし、まさか父親同伴で押しかけてくるとは思わないし、その父親が会計士であるというのも初耳だ。だが、女性が哲夫に用がある、というと、対象となる相手は数が限られる。
母に連れられて、客間となっている和室に挨拶に出る。そんな礼儀も、子供の頃から挨拶させられ慣れていれば、自然にできる。女性と聞いていたので、挨拶が終わるまでは相手を見ないようにして、深々と頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
顔を伏せてそう言って、ゆっくりと顔を上げる。
そこにいたのは、予想通りの人だった。顔だけ確認して、すぐに頭を下げなおす。
「どうぞごゆっくり」
おそらく、彼らの用事は自分なのだろう。だが、哲夫には、その時間が地獄のようだ。咎められる前に、そそくさと部屋を出る。
廊下に出て、思わず母親にすがり付いてしまった。
「どう?」
「最近、猛攻受けてるって話はしてるでしょ?」
「その人?」
そう。頷くのが精一杯だ。それは、母としても良くわかるので、よく頑張った、と肩を優しく叩いた。
「部屋に行ってなさい。あとはお父さんに任せて良いから。精神安定剤、呼んであげるわね」
「あ、ううん。自分で呼ぶ」
呼ばないわけではないらしい。そんな答え方をして、哲夫は逃げるように階段を駆けあがっていく。最近だいぶ良くなってきていた女性恐怖症が、一番酷かった大学時代に戻ってしまったようで、母は心配そうにそんな息子を見送った。
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