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 昼近くになって、精神科の仕事が一段落した宏春は、今度は内科に戻されて診察を続け、午後の三時ごろ、ようやく昼食にありついた。食事を十五分で済ませ、次は救急で集団食中毒の受け入れがあり、人手が足りなくて手隙の内科医、消化器科医、小児科医が総出で処置に当たった。

 こういう救急医療の現場は、高井医院のような開業医ではまずありえない体験で、市民病院へ出張に出てくる理由の一つになっていた。そうしょっちゅうあることではないが、それでも、ここに来るようになって何度か、こういった緊急事態に立ち会っている。

 ようやく一息つけたのは、夜の19時過ぎだった。時計を見上げ、宏春は軽いため息をつく。

 今週は、できれば毎日家で哲夫を迎えてあげたかったのだが、今日はどうやら無理らしい。このまま素直に帰らせてもらえるとは、到底思えないのだ。彼の精神状態が気になるのだが、こればかりはどうしようもない。

 部長に捕まる前に、と宏春は同僚たちが休憩する中、そっと部屋を抜け出すと、ナースセンターの隅に置かれた公衆電話に向かった。

「あ、宏春です。今日遅くなりそうなんで、テツから連絡があったら、こっちから行くから、って伝えてもらえる?」

『わかったわ。何かあったの?』

「集団食中毒で、救急に応援に行ってて。やっと今終わったところ」

 電話を受けた母が心配そうに問うのに事情を説明し、その先は彼女に悟ってもらう。どうやら正しく理解したらしい。はっきりと請け負ってくれた。家族に事情を理解してもらえているということがいかにありがたいことか、しみじみと思い知る瞬間だ。

 受話器を置くと、途端に、自分の背後に人の気配があるのに気づき、はっと振り返った。それは、救急治療室で看護師に混じって他の医師の手伝いに右往左往していた新人女医の、小夜子だった。じっと宏春を見つめ、電話が終わるのを待っていたらしい。

「父が、お話があるそうです」

 それは、自分が、ではないのか? そう、宏春は内心で突っ込んで、しかし表向きは神妙に頷いた。成長したなぁ、と勝手に自惚れてみて苦笑する。高校時代と比較すれば、誰だって成長するものだ。

 呼ばれて、小夜子に案内されて訪ねると、部長は珍しくそこに椅子を用意して待っていた。座るように指示されて、話が長くなりそうだ、と心得る。

 宏春がそこに腰を下ろした途端に、部長は身を乗り出すようにして言った。

「単刀直入に聞こう。それは、当てつけのつもりか?」

 聞いて、宏春は自らの耳を疑った。あまりにも見当違いな言葉なのだ。

 パネルの向こうでは、誰一人帰った様子もないのだが、物音がしない。全員が聞き耳を立てている。

 宏春の隣に座って、小夜子は大人しくそれを聞いていた。

「今、何とおっしゃいました?」

「当てつけのつもりか、と聞いた。違うとでも言うつもりかね」

 どうやら、宏春の聞き間違いではないらしい。となれば、それは、あまりにも宏春の意思と人権を無視した発言だ。

「当てつける、という意味を正確にご存知な上でのご質問でしょうか?」

 思わず、答える言葉に刺を混ぜてしまう。あまりにも、大人が使う言葉ではない。それに、この問題に対しては、はっきりと断ったはずだ。

「何故、当てつけなどという真似を、私がしなければならないんです? お見合いの件に関しましては、はっきりとお断りしたはずです。それとこれとは全く関係がありません」

「ならば、その指輪の意図を聞かせてもらおうじゃないか」

 人の事情に立ち入る割には、ずいぶんと横柄な言い方だ。宏春が機嫌を悪くしても、それは宏春のせいではない。もちろん、タイミングは悪かったのだろうが。宏春は、これを作ったとき、吉川親子のことはすっかり忘れていたのだ。そんなことよりも、彼氏の事情の方が最優先だった。

「私には、決まった相手がいます。その人の事情で、どうしても必要になったので作りました。それだけのことです。いずれ作る予定ではいましたから」

 そう、それだけのことだ。事実も真実も、これに尽きる。素直に受け取られるか、斜めに読まれるかは、宏春の関知するところではない。

「結婚もしていない人間に、結婚指輪が必要だとは、到底思えないが? 必要だというのなら、婚約指輪で十分だろう」

 そう言われて、どう答えたものか、考えてしまう。婚約指輪といえば、それは宝石付だ。哲夫にさせられるわけがない。が、女性ならそれが当然の反応でもある。となれば、これには誤魔化すしか手がない。

「お答えしかねます。相手のプライベートに関わりますので」

「それで、納得しろというのかね?」

「納得していただく他にありません」

 他にどう答えろというのか。事情が事情だけに、宏春には判断できない。これ以上、どうしようもないのだ。

「まぁ、答えたくないならそれでも良いだろう。だがね、そんな答えでは、本当に相手がいるのかすら、怪しいものだ。親御さんを交えて、正式に話し合いの場を持ちたいと思うが、どうかね」

「その必要を認めませんが、それで気が済むのでしたら」

 望むところだ。実際、そうしてもらったほうが助かる。宏春の言葉だけでは信用できないというのなら、父の言葉を借りるまでだ。父が言うように、高井医院とのコネが欲しいのなら、それ以上のねじ込みはないはずである。この状態では、希望的観測と言わざるを得ないが、それでも、望みがあるだけありがたい。

「ならば、今週末お伺いさせていただこう。そのように、ご両親に話を通してくれたまえ」

「承知いたしました」

 ぺこり。頭を下げ、そこを出る。全員が作業をしている風を装って聞き耳を立てていたのに苦笑して、彼らに頭を下げると、そのまま部屋を後にした。





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