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日本史教諭が帰りぎわに「来週の県一テストは地理でやるぞ」と言い残したのが気になったらしい。後ろを振り返った俺は、転入生氏が宏春に、県一テストとはなんぞやと尋ねている場面を見ることとなった。俺が振り返ったのに気づいた宏春は俺に手招きをする。
「友也、教えてやってくれる? 俺、ロッカーに辞書取りに行ってくるから」
「何だよ、二年になっても余裕ぶっこきやがって。国語辞典持ち歩けとは言わないから、せめて英和くらい持ち歩けよな」
「重いじゃないか。大体、電子辞書で済ませちまうお前には言われたくないぞ」
ぴっと俺を人差し指で指して、宏春はそう言って教室を出ていく。俺と宏春が無駄口を叩いている間に、哲夫が転入生氏のそばに行っていた。
「どうしたって?」
「ああ、ええと。県一テストって?」
挨拶もなく気さくに話し掛けた哲夫に戸惑いながらそう尋ねる彼の言葉の何に受けたやら、俺はそこに近づいていきながらくすくすと笑った。勝手に宏春の席に座りながら、哲夫も笑っている。
「そんな戸惑わなくっていいよ。クラスメイトだろ。俺は下山田哲夫。この席の眼鏡は高井宏春ってんだ」
「俺、長峰友也。よろしく」
宏春の机に座って、俺は軽く右手をあげた。小学生の時からこの挨拶だけは直らなくて、今だにこれである。そろそろ直したいんだけど。
「県一テストだっけ? 大丈夫だよ。編入試験よりずっと簡単だから。基礎学力チェックみたいなもんさ」
「来週の月曜日。科目は英国数理社の五教科。県立高校が一斉に同じ時間同じ日に同じ問題をやって、その学校全体の偏差値を出すんだってさ。だから、県下一斉テスト。簡単だから、焦らず確実に解けば、満点も取れるよ」
哲夫の説明だけじゃ知っている俺でもわからなかったので、俺がそう付け足してやる。俺にしては結構どころじゃなく親切だ、と自己評価。そうして転入生氏を見やって、首を傾げさせられた。何だろう。俺を見つめているように見えるのだが、気のせいだろうか。
「どした? わかりにくかった?」
彼の表情に気がついて哲夫がそう声をかける。はっと身じろぎしたので、ただぼんやりしていただけだとわかった。出ていった戸から宏春が戻ってくる。そう重くもない大学生教養過程用クラスの辞書を肩に担いで。別にかっこつけているわけではなく、重い物を持つときの彼の癖なのだが、そうは受け取ってくれない人の方が多いらしい。
「県一テストの何たるかは教えてもらったかい?」
「お前ね、男相手にそういうナンパな声かけるんじゃないよ。そんなだから、買わなくてもいい喧嘩売り付けられるんだぞ」
「そうそう。心配する方の身にもなれって」
俺の手元に辞書を放って宏春が彼の机に手をつき、俺はそれにからかいの言葉をかけてやる。哲夫の頷きながらの言葉には実感がこもっていた気もするが、ただの便乗と取っておこう。宏春に喧嘩なんて無理だし。
この俺たちの会話がおもしろかったらしい。転校生氏が急に笑いだした。そんなにおもしろいことを言った覚えはないのだけど。
「おんしらあ、おもしろいなあ。いつもそがいな会話しとるがか?」
あ、方言が出てきた。そう言えばどこの出身だろう。彼の紹介もろくに聞いてなかったし、さっき彼のまわりに集まった彼らは聞いたかもしれないが俺はそこにいなかったし。見ると、哲夫と宏春は二人顔を見合わせている。俺たちの反応を見て、転校生氏は頭を掻いた。
「ごめん。とっさに方言出ちゃって」
「いや。……えーと。今の、土佐弁?」
「先月まで高知に住んでたんだ。よくわかったね」
「仕事のせいかな。最近ずっと四万十川流域だから」
仕事?と今度は彼が首を傾げる番。にこっと笑ってみせる。
「イラストレーター。高校生が仕事だというなら、副業ってところかな。こないだやったのの元の小説がその辺だから」
「副業か。そりゃすごいな。この学校で副業持つなんて、大変じゃないの?」
「ああ、それは全然平気。友也が真面目に勉強してるところなんて俺は一度も見たことがない」
「宿題出てる教科書ロッカーに置いて帰る奴なんてこいつくらいだろ」
感心してくれた彼に、哲夫と宏春は共同でばしばし俺の評価を落としまくってくれる。まあ、否定するのも無駄な労力なので言われたままにしておこう。間違ったことは言われてない。
と、いきなり哲夫が大声をあげる。
「って、やばいっ。英語の予習してないっ!」
「……大丈夫だろ。初日だし、教科書なんて入んないよ」
いやに覚めた声で切り返したのは、恋人であるはずの宏春。哲夫は真剣にぷるぷると首を振る。なるほど、まわりでみんな辞書に首っ引きになっているわけだ。訴えるような目に宏春は何かに気づいたように手を打った。
「そうか。次、リーダーだ。太田女史担当だったな、うち」
「太田女史?」
何の話?と不思議そうに問い返した転入生氏にもったいぶったように宏春が頷く。その説明は宏春に任せて、俺は自分の机に戻っていった哲夫を追いかけた。後ろから宏春の声が聞こえてくる。
「そう。うちの学校では学年を問わず悪名高い先生さ。授業第一日目からいきなり教科書に入ってな、質問は重箱の隅つつきまくり、おまけに一回に進む量が半端じゃない。教科書が終わると決まってシェークスピアの原文訳させられるのさ。下手な大学の英語よりきついっていう噂。太田女史に当たったクラスは、不運以外の何物でもないってね」
ということだ。おかげで英語嫌いな人が彼女に当たると、将来英語で大変苦労するらしい。たいていつら過ぎて英語を捨ててしまうから。俺は英語は得意なほうなので助かっているが、哲夫は英語が大の苦手で、これはもう合掌してしまうしかない。俺は哲夫の机の横に立って教科書を直訳してやりながら、肩をすくめた。
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