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実際、哲夫本人に対してアクションがあったのは、さらに数時間後。定時のチャイムがなった時だった。今日の騒ぎのおかげでさっぱり仕事にならなかった哲夫は、部長命令で解放されて、家路につくことになったのだが、その通用口の前で、一人の女性が待ち構えていた。
それは、恋人がいると言って断ったのにも関わらず、諦めないと宣言してくれた、問題の彼女であった。
「それ。どういうことですか?」
「こういうことだよ。他に何か理由が?」
男が、しかもサラリーマンが、左の薬指に指輪をする理由など、よほどのことがない限りは、ただ一つだ。
当然のことだが、彼女は哲夫が先週までそんなものを身につけていなかったことも、この週末で結婚したわけではないことも知っている。
だから、その指輪が気になったのだろう。結婚していない男が、それも弁理士などというカタイ職業の男が、何の理由もなしに指輪など、するはずが無い。
だが、だからと言って哲夫が責められる謂れもないわけで。女性には恐怖心と嫌悪感とが入り混じった先入観があるので、早々にそこを立ち去りたくて、思わずつっけんどんな対応を取ってしまう。
そんな哲夫の事情など露とも知らない彼女は、ただ、勝手に怒っていた。
「そんな嘘の指輪をして避けたいほど、私が嫌いですか?」
「君に限ったことではない。言ったはずだよ。決まった人がもういるからって」
どうしてこんな指輪一つでそんなに怒るのか、哲夫としては実に不思議であった。それも、はっきりとお断りしている相手である。そんなに積極的にアタックしてもらえる人間ではないとの自覚があるから、なおさら理解に苦しむ。
彼女は彼女で、理解できないのだ。決まった相手がいるとはいえ、まだ独身のはずである。正式に誰かのものになったわけではない。そこには割り込む余地があって当然であって、自分がこんなにもアプローチしているというのに、見向きもしない男など、今までであったことがないから、なおさら戸惑ってしまう。
「でも、結婚しているわけではないのでしょう?」
その問いには、哲夫としても答えに窮してしまう。何しろ、戸籍上夫婦には到底なりえない関係だ。公表して大衆の支持が得られるとは、とてもではないが思えない。
個人事務所を構えているというならともかく、今はサラリーマンの身分だ。今の立場でこの性癖がバレたら、最悪、職を失ってしまう。せっかく猛勉強して得た地位である。みすみす捨てたくない。
「とにかく、そんなもの程度で私は誤魔化されませんから。絶対に、振り向かせて見せる」
びしっと人差し指を立てて哲夫の鼻先に突きつけ、声も高らかに宣言する。哲夫は、その迫力に圧され、びくっと縮こまるしかなかった。宣言した途端に踵を返し、彼女は堂々とそこを去っていく。
見送って、哲夫は肺の空気を全て吐き出すほどの、大きなため息をついた。
「よく逃げ出さなかったなぁ、俺。自分で自分誉めそう」
呟いて、苦笑して、歩き出す。今は家に帰るよりも、彼氏の顔が見たかった。今のたった数分で、気力を全て使い果たしてしまって。
ふと、忘れていた左手薬指の違和感に気づいて、原因をまじまじと眺める。それから、それをくれた彼氏を思い浮かべて、にへらっと笑うのだった。
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