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 弁理士事務所から企業の特許部へ転職してようやく二週間。駅前にある出身高校の桜が葉桜になった頃だ。

 早速残業が入って、帰りの遅くなった哲夫は、家に帰る曲がり角を通り過ぎ、直接高井医院へ顔を出す。

 今日は診察の日だった。基本的にいつでも個人的に診てくれるのだが、週に一日、水曜日、と決めて通ってきていた、その日だ。

 哲夫の恋人である宏春は、そのまま哲夫の主治医でもあって、毎週定期的に、何かあればその時も、カウンセリングを受けていた。

 哲夫の心の傷は、年季が違う。中学生の時からずっと、苦しみ続けていた。

 女性恐怖症、という。

 宏春が精神科医を志した理由の一つが、哲夫の存在だった。できることなら、治してあげたい。それが無理でも、症状を緩和させてあげたい。素人対応じゃなくて、専門家として。そう思うから、宏春も今まで頑張ってきたのだ。

 最近では、仕事都合で女性と話をする分には、何とか自然に対応できるようになっていた。実は、企業に転職したのも、将来の独立を見越しているのと同時に、リハビリのためでもあるのだ。大企業になれば、当然身の回りには女性の影が増える。特許部には幸い事務職の中年女性一人なので、慣れるにはもってこいの環境だ。個人事務所ではこうはいかない。

 こんばんはー、と声を掛けて、預かっている鍵で母屋の玄関を開け、まずは居間へご挨拶。

「こんばんは」

「いらっしゃい。ゆっくりして行ってね」

 テレビを見て寛いでいた両親が、揃って振り返り、そんな声を掛けてくれる。毎日訪れるたびに同じ台詞をもらうのだが、それが哲夫の心を優しく包んでくれる。

 二階へあがると、宏春はその日のカルテの整理中だった。パソコンに打ち込んで、データの保存と県内医局ネットワークにデータを送るためだ。ネットワーク化しておくことで、どこの医者にかかっても、過去のカルテが引き継げる、という仕組みを最近制度化し始めていた。

「あ、まだ仕事中?」

「あぁ、おかえり。ちょっと待ってて。後一枚だから」

 パソコンの画面から目を離さずに、宏春はそう言って仕事を続ける。頷いて、哲夫は邪魔にならないように、宏春のベッドに腰を下ろした。

 五分後、ギシ、と宏春の椅子が鳴る。どうやら、仕事が終わったらしい。

「失敗だったかなぁ?」

 パソコンを終了している宏春に、哲夫はようやく話しかけた。主語がない。それは、相談というよりも、ぼやきに近い。

「ん?」

 そのぼやきに、ちゃんと聞き返す。聞き返しながら、やっとパソコンの終了ボタンが押せたらしく、こちらにやってきた。机の上で、パソコンからカラカラと音がするのは、内部処理で終了処理中であるらしい。

「俺、そんなに男前?」

「何を急に?」

 恋人に聞く言葉じゃないだろ、と内心で突っ込みつつ、宏春は哲夫の隣に腰を下ろす。どうやら、この恋人は、そのことで少し困っているようだったからだ。普段だったら、遠慮なく突っ込みを入れているところだが。

 聞き返して、ふと、思い当たる。そういえば、哲夫が社内でも指折りの美人に声をかけられたと聞いたのは、つい数日前だった。病気がなければ、他の女に取られる!と焦るところだが、哲夫の場合は、心の病気の進行を心配するくらいだ。

「また、誰かに告られた?」

「うん。またもや、社内指折りの美人。好きな人がいるから、って断ったんだけどね。諦めない、って宣言されちゃった」

「そりゃ、困ったな」

 恋人としても、主治医としても、困った話だ。哲夫も、どうしたらいいのかわからないことに、ショックを受けているらしい。いつもの覇気が少し欠けている。

 そっと抱き寄せてやると、安心したように頭を預けてきた。

「ちゃんと、断れた?」

「うん。多分。めちゃくちゃ緊張したけど」

 それは、恋人としてのやきもちではなくて、主治医としての診察であって、哲夫にもそうわかるから、誤魔化そうとはしない。甘えてしまっているのはわかっていて、もっとしっかりしなくちゃ、と自分を叱るのだが、哲夫には今の状態が精一杯だ。

 それでも、高校時代は恋にも部活にも一生懸命な、活発な少年だった。今のような儚さは、微塵も感じられないほどの。

 哲夫の女性恐怖症は、歳の離れた二人の姉の影響だ。彼女たちとその友人たちに、執拗なくらいに可愛がられて、すっかり女性不審になってしまっていたところへ、彼女たちが持っていたレディース漫画やら同級生が調達してきた大人の雑誌やらが追い討ちをかけて、いつのまにやらトラウマ化していたのである。

 女性恐怖症といっても、世の中の女性全てに抵抗があるわけではない。問題の原因となった姉や実の母、宏春の母親、その他気心の知れた中年女性やお年寄りには、ほとんど反応を示さない。
 問題なのは、十代半ばから三十代くらいの、恋愛対象となるお年頃の女性と、一時期流行語になった『オバタリアン』に属する中年女性たちだった。つまり、女性である、と哲夫が感じる相手が対象なのだ。

 したがって、自らの色気を武器に交際を迫るのは、はっきり言って逆効果だった。だが、世の女性たちは、世間一般に男が食いつくと思われる行動をとる。ばっちり化粧をして、色気たっぷりの香水を振り撒き、自分ができる最高級のオシャレをして、より『いい男』を捕まえようと必死なのだ。

 哲夫の女性恐怖症は、恋人としては大変助かる話である。何しろ、同性愛の強敵である、正常な恋愛対象、というものに邪魔される心配がない。だが、主治医としては、それを治してあげたいと切に願っていて、つまり、宏春の中には相反する二つの感情が入り混じってしまっているのである。

 それにしても、と宏春は哲夫をじっと見つめる。付き合い始めて、人生の半分以上を共に生きてきたこの恋人は、どうやら女性受けする姿をしているらしい。哲夫自身が女性から逃げて生活してきたせいで、これまで頻繁にはこれといった症状に至っていないこともあり、宏春にはそんな認識が欠けていた。宏春が哲夫に惚れたのは、そんな外見ではなく、中身だ。今まで、外面など全く気にしていなかった。迂闊だったかもしれない。

「だからといって、仕事、辞められないしな」

「入ってまだ二週間だからね。理由も説明して納得してもらえるかわからないし」

 今のままでは、第三、第四の告白者が出てもおかしくない。その度に、哲夫の神経をすり減らされるのは、大変面白くない話なのだ。といって、そんな些事を原因に、逃げ出すわけにもいかない。

 ということは、告白劇を何とか最小限に押しとどめる小細工が必要だ。

「週末、ジュエリーショップに行こうか?」

「へ?」

 唐突な申し出に、哲夫はさすがについていけず、情けない問い返し方をしてしまう。その反応にひとしきり笑って、宏春は恋人の左手を取った。薬指の付け根に唇を寄せる。

「ここに、俺のものだっていう、所有の証をつけてあげる。そしたら、変に迫られることもないだろ?」

「でも、恥ずかしいよ? 一緒に行ったら、俺たちの関係、疑われる」

「良いじゃん。事実だし」

 ということは、嫌ではないらしい。そう判断して、宏春は嬉しそうに笑った。反対に、結婚指輪なんて話は今まで一度もしたことのない宏春の突然の言葉に、哲夫は素直に驚いている。

「突然、どうしたの? そういう形って、ヒロは嫌がると思ってたのに」

 そんな、心底不思議そうな問いに、宏春は苦笑を浮かべる。確かに、そういう、形だけの行為は、余り好きではないのだが。そこは、さすが大親友。良くわかっている。

「それがねぇ。友也のとこで怪我人が出て、親父に連れられて往診に行ってきたんだけどさ。友也がね、してたんだよ、左の薬指。いやぁ、びっくりした。そしたら、雅もしてるよ、なんて平然と返してくれちゃって」

「羨ましくなっちゃったんだ?」

 ま、ありていに言えば?などとうそぶいて、宏春は少し恥ずかしそうに笑って返す。高校時代からの友達で、向こうも今でも二人で仲良くやっているのだが、そのカップルが結婚指輪をしているのに、触発されてしまったのだ。とはいえ、それもありか、という選択肢の一つに含まれただけに過ぎず。

「テツの場合、言い寄ってくる女性除け、だろ」

「それだけぇ?」

 疑わしい目で顔を覗き込んできたそれが、いつもの元気な恋人の顔で、宏春は少しほっとしながら、その額を小突いてやる。

「だから、後二日、頑張って」

「ほーい」

 ふざけた様子ではあるものの、それははっきりと了解の意を表していて、宏春はその彼氏の頭をぽんぽんと叩いた。





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