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その時、宏春は困った顔でそこに立っていた。
医者になって実家の医院で働くようになって、ようやく一人前の仕事もできるようになった。今は、市民病院に武者修行がてら週一回の出張に来ている。
その、市民病院内科部長室に、宏春は立っていた。部長室といっても、医師控え室の隅をパネルで仕切っただけの場所なので、応接セットなどといった気の効いたものはない。
そこに、部屋の主に呼び出されて赴いて、彼は困っていた。
部長の申し出に対する返事に、窮しているのである。
宏春に対する、見合いの話だった。相手は同じく市民病院の内科に勤める研修医明けの新人女医で、この部長の娘だった。
悪い人ではない。医者としては、将来有望だと思う。
だが、生涯を共にする相手としては、宏春の眼中にない。
そもそも、既に決まった相手がいるのだ。ただ、それを公表して、自分はともかく、その人に迷惑をかけるのが恐い。世間様に祝福される相手ではないのだから。
問題は、どうやって断るか、なのだ。相手が、目の前にいる本人の実の娘であるということは、きちんと理由を話さなければ納得してはもらえないだろう。
「申し訳ありませんが……」
「うちの娘では魅力がないか?」
親というのは、そういう発想をするのだろうか。断る台詞を言った宏春に、部長は間髪入れずに突っ込んできた。それは、それ以前に、宏春に他に恋人がいるという可能性を、無視した行為である。宏春としても、その返す言葉に、一瞬眉を寄せた。
「娘さんは、とても魅力的な女性だと思います。ですが……」
「ならば、話してみるだけでも、良いじゃないか。ん?」
どうも、ねじ込まれる。これは、今断るのは無理かもしれない。そう判断すると、宏春は心の中で大きなため息をつき、諦めた。
「考えさせてください」
「あぁ、もちろん。よく考えてくれたまえ。良い返事を期待しているよ」
上機嫌な部長の声に送られて、宏春は仕切りを出る。そして、ふと顔を上げると、問題の彼女がこちらを見ていたのがわかった。
目が合った途端に、ぽっと頬が赤くなり、慌ててうつむくのが見える。
なるほど、話の発端は彼女であるらしい。きっと、それとなく取り持ってくれ、とでも親に頼んだのだろう。困ったことだ。
はぁ、と大きなため息をついて肩を落とし、宏春は帰る支度を始めるのだった。
実家に帰って親に一日の作業報告がてら、ため息交じりにそれも報告すると、母はけらけらと笑い出した。父もまた、苦笑を浮かべて返してくる。
「そんなの、無理やりねじ込んで言っちゃえばいいのよぉ。もう、結婚の約束をした相手がいますから、って」
「でも、テツに迷惑をかけたくない」
「あら、それならなおさら、ちゃんとお断りしなくちゃ。話がこじれると、哲夫君にも心配かけるわよ。ねぇ、あなた」
話を振られて、父もこくりと頷いた。
信じられない話だが、二年前、恋人の弁理士試験合格を機に、双方の両親に、猛反対を覚悟で報告に行ったところ、どちらの母親にも「そんなこととっくに知ってたわよ」とあっけなく返され、これからもうちの息子をお願いします、と反対に挨拶を受けてしまっていた。
どうやら、資格取得に忙しい本人たちは放っておいて、親のレベルでとっくに話がついていたらしい。中学生の頃からずっと仲が良く、どちらかの家でたまにエッチもしていたので、おそらくはそれでバレてはいたのだろう。おかげで、男同士であるにもかかわらず、すっかり婚約者状態なのだ。
「娘さんはともかくとして、吉川さんはこの家との繋ぎが欲しいのだろう。はっきり断りなさい。婚約者がいると言われて強引にねじ込む人ではないはずだ」
そう言って、父自ら受話器を取り上げ、息子に渡してくる。両親が味方についてくれるのは、社会的な立場から見ても心強く、宏春は苦笑してそれを受け取った。
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