マリッジリング 1




 四月。

 世間一般で、年度が明ける出発の時期。

 彼は、やってきた。

 リクルートスーツに身を固め、手には使い込んだA4サイズのビジネスバッグを携えて。

 年の頃は、三十歳そこそこだろう。そう、彼女はその彼を見定めた。

 現在の時刻は九時半。受付事務以外はフレックスタイム制を適用しているこの会社では、この時間はあまり人がいない。現代日本人の悪い癖だが、年が若くなるほど、朝遅く夜も遅くなっていく。

 この時刻に、受付を通さずに直接エレベーターに乗り込むということは、おそらくどこかの部署に転職してきた新入社員だ。

 彼女は、何気なく、その彼を心のメモにチェックした。

 彼女の名前は青山理沙。この、大手AV機器メーカーの本社ビル受付嬢である。

 彼女の関心事は、もっぱら、ここを訪れる男の品定めである。いまどき珍しい、腰かけOLだった。

 というのも、本人の家に理由がある。働かなくても、親の収入で十分裕福な生活ができる生まれなのだ。親が社会勉強のためにと就職をせっつかなければ、今頃は、家にいて花嫁修業か、良くてフリーターになっていたはずだ。

 受付嬢、という仕事柄、自分のスタイルや美貌には自信がある彼女だ。その分、パートナーとなる男にも、それなりの容姿を求めている。だからこそ、男の品定めなどという、いまどき品性を疑われることを、平気でしているわけだが。

 彼女は、その上、交友関係にも絶大の自信を持っていた。もちろん、実績の伴った自信である。彼女の昼食のパートナーは、日替わりでペアを組んだとして、一ヵ月はダブらずに回せる人数だ。

 今日の相手は、人事部所属のOL仲間だった。

 彼女は、人を覚えるのがうまい。一度顔を見れば、大体の特徴が表現できてしまう。実際、その力が、彼女のとりえでもある。だからこそ、受付嬢の仕事もうまくこなせるわけだ。

 その能力を利用して、彼女は最近気になっている男の情報を、人事部の友達からゲットすることに成功した。

「調べてあげたわよ。理沙の言ってた気になる彼氏」

 女の関心事はそれしかないのか、と男たちは呆れるのだが、とかく女性は噂話とファッションの話にはうるさい。

 そして、そういう話をするときの、口調が大体同じだ。おばさんの井戸端会議に代表されるように、別に内緒にする必要もなさそうなことでも、ひそひそと話す。相手をからかうような口調になる。時には言い回しが押し付けがましい。

 が、お互いにそんな話し方をしているので、本人たちはまったく気にしていないらしい。

「その人、理沙の見立てどおり、中途組ね。特許部に今月から入社した弁理士で、名前は、下山田哲夫。年は三十歳、独身でバツなし。住所は神奈川県よ。小田急線沿い。実家暮らしみたいね。親は会計士」

「あら、じゃあ、パパの知り合いかも」

 人事部というところは、恐いところである。社員の個人情報が筒抜けなのだ。本人たちは、友達の恋を応援しているつもりなのだろうが、十分にプライバシーの侵害に当たるし、彼女たちにかかれば社員名簿の転売などお手の物だ。ここまでくると、立派に犯罪である。

 友達がもたらしてくれた情報に、彼女はにやりと笑った。なんともお買い得な相手を見つけたものだ。

 容姿は、彼女に一目惚れさせるだけのことはあって、合格圏ど真ん中。弁理士という職業は、難易度も収入も高い。その上、親が会計士なら、お見合いが成立する。両親も大満足で合格点をつけるだろう。

「でも、理沙。彼氏、結構ハードル高いわよ。秘書課の山崎さんが振られたらしいから」

 そう言われて、理沙はへぇ、と気の無い返事をしながら、身を乗り出した。

 秘書課の山崎と言えば、若手社員の間ではかなり競争率の高い、高嶺の花だ。受付の青山さんか、秘書課の山崎さんか、と並び賞される美人である。そんな相手を振るとなると、だが、理沙はますますやる気になる。

「どうして?」

「いるんですって。彼女」

 それが理由で山崎は振られてしまったらしい。

 だが、なんだ、そんなこと、と理沙は胸を張る。

「一度や二度、振られたからって諦めたら、女が廃るってものよ。今他人の物だとしても、欲しかったら奪い取らなくちゃ」

「言ったわねぇ」

「理沙、頼もしーい」

 理沙の名言に、きゃっきゃっと女たちが笑い出す。すぐそばで食事を取っていた庶務課のお局様が、迷惑そうに眉をひそめた。





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