12
その夜。夜中。
ふと目を覚ました。部屋の中に夜風が吹き込んでいる。窓が開いているのだろう。
誰か起きているんだろうか。そう思って横を見たら、宏春の頭が見えなかった。
袢纒を羽織って開いている窓に近づいて行く。カーテンの向こうに宏春の背中が見えた。ベランダに立って、ぼんやりと海に映った月を見ている。
「お前、いい声で鳴くのな。俺まであおられちまったよ」
ずっと海を見たまま、ぼそっと宏春が呟くように言った。俺のことなのだろう。それはわかる。でも、背中を向けたままで、そこに人が現われたことも、それが誰かということもわかるなんて、すごい。
「久しぶりで我慢できなかった?」
「何でわかった? 俺だなんて」
答えて、俺も横に並ぶ。宏春はただくすくす笑った。
雅にとっては初体験の後。哲夫は一度眠るとなかなか起きなくって、幸せそうに布団を抱いて眠っている。雅はさすがに初体験後で疲れたのか、息も忘れたようにぐっすり眠っていた。
二人とも、俺たちが起きているのに気づかないまま朝を迎えるのだろう。時刻は草木が眠り棟木も三寸下がるという丑三つ時。この旅館で起きているのは俺たちだけだといっても驚かない。
雅の初体験の相手は、もちろん俺である。早々に布団に入ったのはいいが、宏春と哲夫は何やらぼそぼそと真剣な顔をしてしゃべっているし、全然寝つけなくて、雅ととりとめのない話をしていた。そのうち向こうのカップルがごそごそとじゃれはじめたのに触発されて、結局事に及んでしまったわけだ。
男とどころか女ともしたことがないという雅を、俺がリードするような形で。といっても、怪我のせいでうつぶせにしか寝られないからほとんど独学させちゃったけど。
柵に寄りかかって俺は寝る前の情事を思い出し、顔をぽかぽかと温めていた。暗くて見えないはずだけど、誤魔化すように話しかける。
「海はいいよね。広くて大きくて、見ていて安らげる」
「まあ、ヒーリング効果があるのは確かだね。生きものは海から生まれたから、帰ってきたような気がするんだって」
それは俺も聞いたことがあるけど、でも、ふーんと返す。そんなことを言う口で、宏春はこうも言う。
「んなこと言う奴に一度聞いてみたいんだよな。時化た海見てもそう思うか、ってさ」
「まあね。でも、やっぱり海は好き」
「俺も、海か山かっていわれたら海だな」
「何でそう、こき下ろした後で言えるかな。たまに宏春って発言想像できないぞ」
「物事は裏側も見て判断しろ、ってことさ。ジャーナリストの鉄則」
言って、笑った。もともとジャーナリズムには興味のなかった宏春が、いつのまにか新聞の編集をして、普段からそういう考え方をしているのが不思議に思える。最初は、何か新しいことに挑戦してみようと思って、メディア研究部に足を踏み入れたらしいが、そこでの経験が宏春に大きな影響を与えている。良いにしろ悪いにしろ、宏春はこの状況に満足しているらしい。
「で? その海を見て、何を考えてたんだ?」
あまりにもまわりが静かだから、道を挟んで向こう側に打ち寄せる波の音が聞こえてくる。ん?と聞き返すでもなく言って、宏春は寄りかかっていた柵から体を起こす。それから、海を背にしてまた柵に寄りかかった。俺も、柵に腕を乗せてその上に頭も乗せ、宏春を見上げた。
「ちょっとね。将来のこと、考えてた」
「海を見ながら?」
「海に浮かぶ月を見ながら。これからもずっと、一生、本物の月じゃなくて、水に映った月を見るのかな、と思って」
何だよ、それ。よくわからなかったのが声に出て、少し力のない問いかけ。宏春は答えずに笑っている。
「ちょっと、自分の実力が測れなくてね。最近ずっとイライラしてたのが、ついにテツにばれまして」
「怒られた?」
「かなりね。何か悩んでてもいいけど、悩むなら俺も混ぜろ、ってさ。何のための恋人だ、身体だけならふっちまうぞ、だって」
「哲夫らしい。じゃあ、さっきぼそぼそ言い合ってたのって、それか」
さっきといっても、俺と雅がじゃれてた時だけど。気づいてたの?と少し驚いたように宏春が顔をこちらに向けた。
気づいてたも何も、俺と雅はそんな二人を心配していたのだ。二人を信じてるから、何も聞かないつもりでいたけど。真剣に話し合うようなことなら、俺たちが首を突っ込むようなことじゃないし、本当に真面目に悩んでいる話で俺たちが力を貸せるようなことなら、こいつらは相談してくれるだろうから。喧嘩じゃなさそうだったし。
まあ、この二人の喧嘩の場合、犬も食わないというやつで、割って入るだけ馬鹿馬鹿しい。
「テツってさ。大雑把な性格してるくせに、勘いいんだよね」
「何だそれ。恋人のこと言ってるように聞こえないぞ」
「そこが好きなのさ」
「あっそ」
今更だけど、こいつって惚気大王。でも、そのくらい惚気られる奴だから、哲夫みたいな純真なのと付き合っていけるのかもしれない。
どっちもが「好きだ」って気持ちを表せなかったら、相手の気持ち、わからないから。俺が寿士さんを無理矢理つなぎとめてたのも、宏春みたいに惚気まくったからだし。
「で? 水に映った月って?」
「将来の話さ。俺に、人の気持ちが、しかも隠しておきたい裏の気持ちがね、読めるのかなって」
はあ? わけがわからなくて聞き返す。宏春が精神科医を目指しているのは知っている。そういうことを言うときは目も真剣だから、本気なんだとわかる。でも、それと水に映った月って、どう関係がある?
「人ってさ、自分の本質をなかなか見せたがらないだろ? だから、ここまでなら見せても大丈夫っていう境界線を引く。そうしてから他人に見せる自分ってやつが、水に映った月なんだ。
嘘じゃないけど、すべてでもない。表面の、しかもぼやけてきれいにしか見えない、その姿を人は他人に見せてる。ボコボコのクレーターとかこっちからは見えない裏側なんかはきちっと隠してね」
「でも、クレーターや裏側を治療してやるのが精神科医の仕事、か。なるほどねえ」
まだ高二のうちから将来のことを考えてるなんて、偉い。俺の場合は、でも、何ができるか、からだな。
「でも、まだ高校生だよ?」
「うん。医者になるってのは決定事項だから、後はゆっくり考えるよ。友也のおかげで少しだけ自信持てた気がするから」
友也が立直ってくれたから、と言って宏春は笑った。なら考えるな、と言いたいところだが、根は真面目な宏春のこと、一生こうやって考え続けるのだろう。精神科医になる前は、本当になれるのかと。なった後は、これでいいのかと。
そう悩んでいるかぎり、宏春はいい医者でいられると思う。人間は悩んで大きくなるのだ。大きな懐を持った医者になってほしいものである。それだけ頼りがいも出るはずだから。
「将来、ねえ。哲夫はどうするんだろうね」
「さあな。そういや、聞いたことないや。友也は、ずっとイラストレーター?」
「食っていけるならね、そうする。とりあえずは、剣道で昇段する。それでいけるようなら、うちの道場手伝いつつイラスト描き、かな」
右手の制約は結構でかくて、できそうな職がないから。そっかあ、と返して、宏春はまた海を眺める。
「まだまだ、俺たちガキだもんなあ」
「だから、男同士で恋愛してられるんだと思うよ。結婚っていう二字が眼前にないから」
「そういう現実言うなよ。暗くなるだろ」
実際暗くなってみせて、それからやはり笑った。先のことだ。今考えたって仕方がない。
しばらく二人並んでぼんやりする。俺は海を眺め、宏春は部屋の方を向いて目を閉じていた。夜の暗い海に月が映って、波が月の光で光って見える。何でもない風景なのに、何だか幻想的だ。いくら見ていても飽きない。
やがて、またぼそっと宏春が呟いた。
「攻めていきなよ、友也」
え? 突然言われて、何事かわからなくて聞き返す。宏春は真面目な表情で俺を見つめた。
「攻めていきな。後ろは雅や俺たちに任せてさ。俺にとって、友也の一大事は家族よりも大事だから。
雅が右を守るなら、俺とテツで背後を固めるよ。だから、友也は真っすぐ前を見て、守りに入らないで、どんどん攻めていきなよ。
雅がいる分、俺らにとっても友也が最優先とはいかないけど、二番目は確実だからね。俺たちを信じてさ。前に進みなよ」
それって、俺の右手が動かないせい? 俺にはもう、他に弱みなんてないし、どうしてそういう台詞になるのか見当がつかない。
「……同情?」
「友情」
あっさりと恥ずかしくて普通は言えない単語で返して、宏春は楽しそうに笑いだす。
「友也、お前ね。自分のことには首つっこませないで心配すらさせてくれないくせに、人のことはかなり助けちゃってるの、自覚してる?
はっきり言っておくと、俺が諦めかけてた医者になろうと決心できたのも、テツと付き合うようになったのも、お前さんのおかげなんだぞ。
だいたい、お前だって、同情も何もなく、当たり前みたいに俺の身体守ってくれるじゃない。俺は恩を返すだけさ。同情なんて失礼なこと、俺はしないよ」
なあ、と宏春が誰かに同意を求める。そこには誰もいないはずだったから、俺は驚いて振り返った。
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