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 山の境内は堂塔以外はすべてが森で覆われているのだが、本堂前の広場だけは、丁寧に切り拓かれて、敷き詰めた砂利は掃き清められている。それらの作業は、志之助も幼い頃に当番としてさせられた、修行の一環であり、毎日作業者が違うので、乱雑な場合もあれば、そこだけを切り取って絵画に出来そうなほど完璧に仕上げられていることもある。

 まだ朝も早いこの時刻、境内では、掃き清めの作業中であった。一人の僧が、竹箒を手に、砂利を掃いている。

 その姿は、すでに二十代も後半頃と見られた。さすがに慣れた作業で、仕事がすばやく丁寧である。

 砂利を踏む音を聞きつけて、その僧は後ろを振り返った。

 立っていたのは、喪服姿の町人で、手には仏花を携えている。が、その美貌と髷を結わない長い髪は、昔の馴染みそのままで。

「そなた、祥春殿ではないか」

 声をかけられて、しかし、志之助はわからなかったらしい。昔の名前を忘れたわけではないので、そちらに顔は向けたが、相手の顔と昔の馴染みの顔が一致しない。

 思わず首を傾げる間に、彼は竹箒を引きずって、こちらに駆け寄ってきた。

「いや、久しぶりだ。その長い髪も、改めて見るとなんだか懐かしく感じるなぁ」

「……え、っと?」

「あぁ、いや、忘れてしまわれたかの。そうだなぁ、あの頃のそなたには、周りを見る余裕など無かったようだから、無理も無い。円権だ。……覚えてへんか? あんたをようイジメとった、下京の漬物屋の」

「あぁ、道楽息子」

「あちゃ、身も蓋も無いやんけ。まぁ、思い出してくれたんなら、えぇわ。……しっかし、なんや落ち着いてもうたなぁ。あの頃とは別人のようや」

 駆け寄ってきた時の気取った言葉から、砕けた京言葉に変わった途端、志之助の頭の整理がついたらしい。ぽん、と手を打って憎まれ口をたたき、それに対して怒るでもなく、彼はおおらかに笑った。

 この寺にいるときは、志之助にとって誰も彼もが敵だった。だから、周りにもとげとげしく見られていたのだろう。子供っぽいイジメの対象になっていた頃が、意外と長い間あったのだ。それは、志之助にとっては特に心を痛めるようなことではなかったので、というより、その後の彼の生き方がとんでもないモノだったから霞んでしまったわけだが、すっきり忘れていたのだ。

 思い出してもらえたことに、円権と名乗ったその僧は満足げで、改めて志之助の姿を眺めた。それから、少し寂しそうに眉を寄せる。

「そなた、その格好は、還俗してもうたっちゅうことか?」

「坊主の器じゃないからね」

「何を言うか、比叡一の法力僧。俺たちの中じゃ、あんたが一番上に行くだろうって、誰もが噂しとったのに。もったいない」

 ああ、もったいない。そう言って、彼は力なく首を振る。その仕草が、本当に残念がっていて、志之助は少し意外に思ったものだが。

 それから、しかし、すぐに志之助の用事はわかったのだろう。引きずっていた箒を持ち直すと、すっと姿勢を正し、志之助から一歩離れた。

「座主様のお参りやろう? 案内しよう」

「ありがとう。お願いします」

 何も言わずとも悟ってもらえて、いじめられていた当時ではありえなかった気遣いに、志之助は少し驚いたものだが、素直にその好意を受け取った。ぺこりと頭を下げる。

 祭壇は、本堂の本尊前に設えられていた。すでに納棺も済んでいて、そこには立派な位牌が置かれている。志之助は、持って来た仏花を供えると、軽く手を合わせた。

 読経もせずに祭壇を離れてくる志之助に、付き添った円権は、不思議そうに首をかしげた。持っていた箒は、格下の僧に続きを託してきているから、今後ずっと志之助に付き合うつもりらしいが。

「それだけで良いのか?」

「信仰心の無い人間に、読経の権利は無いでしょ?」

「遠慮することは無いのに。そなたにとっては、父親にも匹敵する人ではないか」

「うん、まぁ、それはね。気になってることを片付けたら、ゆっくりさせてもらうよ」

 出よう、と円権を促し、志之助は本尊の前を後にする。促されて、円権も志之助を追いかけた。

 志之助を追って本堂を出た円権は、建物の影から日なたに出たところで、驚いて立ち止まった。志之助の目の前に、黒い影が大量に集まって、今にも襲い掛かってきそうな雰囲気だったからだ。

 それは、比叡山でこそ見たことは無いが、中にはその生き物を祀っている寺もあるという、神聖な生き物だった。神仏の御使い、烏天狗である。

 その正体を知るや、円権は大慌てで志之助に駆け寄った。が、志之助に声をかけようとした途端、その声が喉で止められてしまった。

「山の守護結界を解いた何かがあるはずなんだ。手分けして探して」

 志之助の指示を受け、烏天狗たちは一斉にその翼を広げた。五十八匹の黒い天狗が空を舞う姿は、それはもう、圧巻というしかない。

 唖然として、飛び去っていく烏天狗たちを見送って、円権はその視線を志之助に戻す。志之助はといえば、休むまもなく、そこに立ったまま瞑想していた。

「祥春殿?」

「……志之助、といいます」

「え?」

 問いかけられたその名前に、志之助が注文をつけると、円権はその返答に戸惑って問い返してきた。それはそうだろう。ただ呼びかけただけなのに、思ってもいなかった答えが返ってくるのだから。

 そんな、戸惑いをあらわにした反応に、志之助はしかし、改めて振り返ると、同じ言葉を繰り返した。

「志之助、といいます。今の名前。もう坊主じゃありませんから」

 それは、志之助としてはこだわっていることだったから、はっきりと言い聞かせるように繰り返す。それから、くすりと笑って見せ、すぐにまじめな顔に戻る。

「円権殿。一つ、頼まれていただけませんか?」

「……何でしょう?」

「山に所属する法力僧を、可能な限り残らず集めてください。守護結界を張りなおします」

 それは、すでに部外者となったはずの人間が発した言葉とは思えない、凛とした力のある言葉だった。





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