比叡山にて 1




 その日。

 三十歳になった志之助は、京都にいた。

 一人である。

 なにしろ、こんな危険な場所に大事な人を一緒に連れてくるだけの度胸が、志之助には無かった。

 目の前に見える山々の一部は、志之助を今にも絡めとろうと手ぐすね引いている、仏寺が支配する山だ。名を、比叡山と言う。

 さすがの志之助も、それだけは、無視することが出来なかったのだ。幼い志之助を引き取り、育て上げてくれた、志之助の師に当たる高僧の死だけは。

 だから、志之助が身に着けている着物も、それは喪服だった。

 手には、京都の朝市で買い求めた仏花が抱えられていた。

 還俗したとはいえ、一応親代わりだった人の霊前だ。手ぶらで行くわけには行かなかった。

 敬遠しつつも、一応は居場所を知らせてあった、上野の寛永寺にその第一報が伝えられたのは、師が息を引き取ってから二十日後のことだった。江戸と京都では、かなりの距離がある。飛脚を使っても十五日は確実にかかる距離なのだから、妥当な時間だ。

 志之助がその弟子であったことは、初めから知られていた事実であったから、その報告を受けた日に、寺から使いの小僧がやってきて、知らせていった。

 それが、昨日の晩のこと。

 したがって、比叡山内では、とうに葬儀は済んでいて、座主の地位にいた高僧であるから、山を挙げての服喪中だった。

 志之助は、本来であれば、京都にやってきたその足で、比叡山を登る必要があったのだろう。だが、それは志之助には無茶というものだった。

 何しろ、報告を受けて、最初は渋ったものの、征士郎に背を押されて決意して、一晩かけて蛟の背に乗り空を駆けてきたのだ。いくら身体に自信のある志之助でも、生身の身体で一晩かかった空の旅を享受し、疲れ果てている。少し、休む必要はあったのだ。

 はぁ、と息を吐き出す。

 夏の強い日差しが、吐き出した溜息よりも熱い熱気を引き連れて、志之助の頭上に降り注いでいる。普段は淡い色の着物を着ている分、喪服の中はむちゃくちゃ暑い。

「何も、こんな時期に死ななくてもいいのに……。最後まで弟子に苦労かける人だなぁ」

 そもそも、育ててくれた師匠であるとはいえ、それが尊敬の対象ではなかった関係だ。志之助の言葉に容赦は無い。

 買い求めた花が萎れそうなことだけを心配しているように、それを優しい目で見下ろした志之助は、それから、ふっと姿を消した。

 道端で、ちょうど隣を通りかかっていた行商人が、驚いて立ち止まっていた。




 寺院内は、静けさに包まれていた。しかも、かなり陰鬱である。人が一人死んだところで、大勢には影響しようもないというのに、大げさなことだ、と志之助は他人事のように思う。

 比叡山延暦寺。

 戦国の時代には、武将織田信長の手によってその堂塔を焼き払われてしまったものの、今ではすっかりかつての威容を取り戻している、遡れば平安の時代にまで遡る由緒正しい日本の守護寺である。その寺領は、当初の面積を大きく超え、今や山全体、麓から頂上に至るまですべてを所有している。が、始祖である伝教大師が張り巡らせた守護結界を大きく拡張する術はとうとう誰も習得できず、そのままだった。

 山頂の寺領入り口の門は、そのまま、伝教大師の守護結界の入り口でもあった。普通の人間には見えないその結界も、志之助のように妖怪との混血だと、かなりの負荷がかかる。それなりの覚悟がいるのだ。

 とはいえ、志之助の態度はといえば。

「さて。行きますか」

 こんな感じだったが。

 志之助が征士郎をつれてこなかった理由は、この場所が自分にとって危険な場所であるからなのだが、それは別に、現代の寺院とのしがらみだけが問題なのではない。この山で志之助が相手取らなければならないのは、現代の僧侶たちではなく、この山を千年近く守り続けている、伝教大師その人だからなのだ。

 志之助の潜在能力が、一般の人間に比べて人間離れしているとはいえ、所詮妖怪との混血児である。歴史に名を残す偉人の前では、その影すらかすんでしまう。そして、志之助本人もまた、この人には勝てない、と判断しているのだ。

 だから、怖がった。自分と、自分の大事な人を、引き離されてしまいそうで。

 ところが。

 山門に足を踏み入れた志之助は、片足を突っ込んだまま、つまり敷居をまたいだ格好で、立ち止まっていた。軽く首を傾げる。

 いつもなら、目に見えない膜に一瞬阻まれる感覚と、ぬめりとした気色の悪い感触に、身を凍らせて通り過ぎる場所だというのに。

 何の抵抗も無かった。それはもう、不自然なくらいに。

 気になったら、止まらなかった。明らかに、おかしいのだ。何かとてつもないことが起こったに違いない。そもそも、志之助が裸足で逃げ出すほど、この結界は強力だったのだから。こんなにあっさりと、質が変化するわけが無いのだ。結界が破られていない限り。

 原因を探り出して直さなくては。そう、志之助は考える。今の志之助にそんな義理はまったく無いのだが。よくよく考えればそんな手間をかけてやる必要もまったく無いのだが。

 大体、志之助がこの場所を敬遠していたのは、伝教大師から逃げていたわけではなくて、この仏寺が長い歴史の中で抱え込んだ堕落によるものである。一方で、自分の身体にかかる負荷を堪えてでも、この場所にいなければならないと思わせる何かが、この仏寺全体を取り巻く空気にあって、それはなぜか心地の良いものだったから。

 寺のためではない。この寺をこの場所に興した、伝教大師に対する、敬意の表れだ。そう考えれば、意外とあっさり、志之助の中では気持ちの整理がついてしまうのだ。

 とにかく、何にしても、とりあえずは当初の目的を果たすべきで。志之助は、森の中であれば実は走るより速い、生い茂った木の枝に飛びあがった。





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