盲目の少年




 ぼくがこの家に住むようになって、もう二月になる。神田明神下の小間物屋、『中村屋』。二階長屋の端にある、近所でも評判の良い店で、ぼくもずっと店番を手伝っていた。

 ぼくには二ヶ月以上前の記憶がない、ことになっている。だって、誰にも話せないから。小間物屋の主人、志之助さんが、そういうことにしてくれた。それどころか、生まれも育ちも本名さえもわからないぼくを、自分の子として養ってくれている。申し訳なくて、頭が下がる。

 この家には、志之助さんと、近所に点在する剣術道場の指南役を掛持ちしている浪人、中村様の二人で住んでいたらしい。一体どんな関係なのか、身分の違う二人なのに、本当に仲が良い。そんな二人に、ぼくはどうやら無条件に可愛がられている。

 出会ったのは、江戸から少し離れた、大川の上流の渡し舟乗り場だった。着物も身なり格好もぼろぼろで、かなり長い距離を放心状態のまま歩いてきたようだった、と志之助さんに教えてもらった。その時のことは、ぼくは覚えていない。ただ、逃げて逃げて逃げて。あの人に追いつかれない場所に、行ってしまいたかった。それだけで、その一心で、ひたすら歩いていた。鼻緒の切れた草履を捨てて、裸足で歩いたおかげで、足は傷だらけになっていたけれど、そんなこともまったく気づかず。

 あの時から、ぼくの目は光を映さなくなった。目が覚めても、世界は薄暗い単調な世界の中だった。最初は驚いて、でも、そうなった自分に感謝した。これで、何も見なくて済む。何かあっても、見ることはないから、後は耳を塞いでしまえば良い。あの人も、目の見えない自分など、追いかける気も失せるだろう。それが良い。

「こんにちは」

「あぁ、お菊ちゃん。久しぶりだねぇ」

 お客さんだ。応対に出た志之助さんが久しぶりだというので、ぼくの知らない人だろう。二ヶ月も店番をしていれば、近所の奥さんたちはみんな声で人の見分けが付く。ぼくの知らない声だった。まだ若い人のようで、もしかしたらぼくに年が近い。

「今日はどうしたんだい?」

「大旦那様のお使いで、近くまで来たものだから」

 上品な言葉遣いは、きっと大店に仕える奉公の娘だからなのだろう。大旦那様、というくらいだから。志之助さんの知り合いはかなり幅が広くて、しかも江戸中にいるらしいのは、この店の常連で、同じこの長屋の住人の、おはるさんに聞いた。

「あら?」

 せっかくだからお茶でも、と志之助さんが誘ったのだろう、こちらに足音が近づいてきた。その、近づいてきた方の足音の片方が、立ち止まって、ぼくのすぐ目の前で声を発した。ここまで来て、何だか聞いたことのある声な気がしてきたぼくは、とても嫌な予感に顔を俯かせる。というのも、近所の両替商の若奥様の声にそっくりなんだ。元は奉公娘で、大旦那とは父と子ほども年の離れた、その名もお菊さん。

「貴方、もしかして、与四郎さん?」

 嫌な予感、的中。




 次の日、『中村屋』に客があった。ぼくにとっては招かれざる客。今、一番会いたくない相手。本当は、この場を逃げ出してしまいたい。忘れられるわけがない。だって、忘れたくはないのだから。それよりも、相手に忘れて欲しい。ぼくは忘れてあげられないから。

 それは、ぼくの母と腹違いの兄だった。店先に現れるなり、兄はぼくに駆け寄り、なりふり構わずぼくを強く抱き寄せる。昔もそうしたように。

 小さいときから、ぼくはこの兄に守られて育った。何をするにもどんくさいぼくの面倒を、当然のように見てくれた。足手まといなはずなのに。ぼくさえいなければ、もっといろいろできたはずなのに。友達と遊びに行くこともしない。病弱だったぼくは、雨が降ると決まって熱を出し、兄はそんなぼくを心配して、寺子屋を頻繁に休んだ。店の跡を継ぐことが決まっている兄なのに、貴重な勉強の時間をぼくの不甲斐なさのせいで無駄に費やしてしまった。

 それでも、最近では自分でいろいろできるようになったし、兄の手を借りることもほとんどなくなったし、それで良かったんだ。

 ぼくが逃げた理由は、この兄だった。

 兄は、ぼくに対して、兄弟である以上の感情を抱いていた。弱くて情けないぼくに、しかも男で、片親の血は繋がっているぼくに。そんなこと、あって良い訳がない。

 ぼくはここにいてはいけない。ぼくがいたら、兄が不幸になる。

 それが、ぼくが家を出た理由だった。兄の、負担になるぼくが、自分で許せなかった。だって、兄にそう言ってもらえたことが、嬉しかったんだ。嬉しい、と思ってしまったんだ。思っちゃいけないことなのに。そんなこと、許されて良い訳がないのに。

 兄のことを思うなら、一刻も早く、そばを離れなくちゃ。そんな強迫観念が、ぼくを突き動かした。好きだから。この兄が、この世の誰よりも好きだから。この人に、不幸せになって欲しくない。自分のためならなおさら。

「与四郎。お前なんだね」

「突然いなくなってしまって。どんなに探したことか……」

 兄と母と、二人とも、本心からそう言ってくれているのを、ぼくは知っている。母に心配をかけたのは、確かに心苦しい。母には何の関係もない。母にとっては、自分がお腹を痛めて産んだ子が突然行方不明になった、という事実が与えられただけだ。きっとショックだったろう。わかるから、申し訳ない。

 だけど。

「貴方は、誰?」

「……与四郎?」

 今のぼくは、二ヶ月前に記憶をなくした状態で志之助さんに拾われた放浪者でしかない。彼らのことは、ぼくは知らない。ぼくは彼らを見ることもできない。耳を塞いでしまえば、それで事は足りる。

「ごめんなさい。わからない。貴方は、誰ですか?」

 そう。それでいい。わからないぼくは、簡単にこの人を傷つけられる。忘れてしまえる。表向きだけだとしても。この人にぼくのことを忘れてもらうには、きっと一番良い。これが一番良い。

「……ろうっ」

 ……え?

 今、なんて言ったの?

「大馬鹿野郎っ。お前の考えていることなんて、俺には手に取るようにわかるんだよ、与四郎っ。何年お前の兄をしていると思っているんだ。一体何年お前のそばにいると思っている。何年お前を思い続けたか、それをずっと心にしまって耐えてきたか、お前にわかるか。逃げるな。頼むから、逃げないでくれ。戻ってきてくれ。俺は、お前がいないと生きていけないんだ。お前でなければ意味がないんだよ。わかっているはずだ。お前なら、わかるだろう? 戻って来い。嫌だというなら、力ずくだぞ」

「……ねぇ、与四郎。貴方は優しい子だから、きっと、自分が兄上の足手まといになると、そう思ったのでしょう? 兄上はね、貴方に気持ちを打ち明けるより先に、私と父上を説得しているのよ。土下座までして。与四郎をください、絶対幸せにするから、って。貴方は、知らないのかもしれないけれど、父上の実の息子は貴方一人。兄上は父上の亡きお姉さまの子。私が貴方を産まなければ養子となって跡を継いだのでしょうけれど、今は貴方が父上の跡を継ぐ。それを、兄上はとうに受け入れていらっしゃるのよ。それでも、自分の気持ちに嘘がつけないからって。ごめんなさい、って泣いて謝ってくれたの。認められないなら放り出してくれて構わないから、って。店の跡を継ぐ、その野心からの言葉だったなら、父上は迷わず兄上を追い出したことでしょう。あの頑固者の父上が、認めてくれたのよ。貴方が、それを受け入れられるなら、構わない、って」

 ……それが本当なら、ぼくは、一体なんてことを……。

「戻ってきてくれるだろう? 与四郎」

「帰っていらっしゃい。与四郎」

 ぼくは、ぼくの本当の気持ちを、口に出してもいいのだろうか。許されるのだろうか。だって、ぼくも兄も男だし、ぼくには子を産む力がない。兄の気持ちにちゃんと答えられるのか、わからない。目も、見えなくなってしまった。ぼくの早とちりのせいで。それなのに、許されて良いのだろうか。

「お行きなさい、与四郎さん。目も、きっとすぐに見えるようになりますよ」

「……志之助さん……」

 本当? 目が、見えるようになる?

「大丈夫。だって、その目はただ、貴方の何も見たくないという気持ちが現れているだけだから」

 勇気を出して。足を踏み出してごらん。そう言って志之助さんは、優しく背中を押してくれた。今までもそうしてくれたように。

 膝に置いた手を、懐かしい大きな手が包み込み、引っ張り上げてくれる。無理やり立ち上げられた勢いで、目の前にいる人の、兄の胸に飛び込んだ。暖かな、力強い腕に抱かれ、頼りがいのある広い胸に顔をうずめる。

 涙があふれた。ぼくの憧れていた場所。ずっと、求めていた場所。

「あにうえ……」

「おかえり。与四郎」

 耳元に囁くその声が、ぼくにはまるで神様の声に聞こえていた。



おわり





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