終
四谷には、甲斐雪輔の実家である甲斐家がある。奉行所の役人であるからこそ八丁堀に暮らしている雪輔だが、これで甲斐家の長男であり、ゆくゆくはこの家に妻と暮らす予定だ。
この家に、二人は招かれていた。内々ではあるが、結婚の披露宴を行うから来てほしい、と招待を受けたのだ。
雪輔の実家であるこの甲斐家と、このたび結婚することになった妻の実家である片桐家は、本当にすぐ近所にある。道三本離れただけの位置関係だ。
妻の嫁入りの隊列は、すでに家を出たという。
迎えるため、参列者は全員、甲斐家の狭い庭に出て待っていた。
二人のすぐそばには、赤坂の町医者、片瀬松安がいて、雪輔を羨ましそうに見ている。だから、早く恋人と結婚すれば良いのに、と征士郎は松安の後姿を面白そうに眺めていた。
空はすっきりと晴れ渡り、雲一つない青さで頭上を覆っている。
と、征士郎は頬に冷たいものを感じて、それを拭った。水滴だった。雲などどこにもないのに、一体どこから降ってくるのか、それを合図にしてその水滴は雨となり、地に降り注ぎ始める。
志之助も雨に気付いたらしく、手のひらを上にして前に差し出すと、何とも用意の良いことに持っていた傘をおもむろに広げ、自分と旦那の上に差した。
「用意が良いな」
「だって、稲荷神の娘のお嫁入りだよ?」
「狐の嫁入り、か」
なるほど、お天気雨には納得の理由だ。納得してしまって、くっくっと征士郎は笑う。
突然の雨に人々が右往左往する中、志之助と同じ発想をしたらしい新郎だけが、平然と傘を差して嫁を待っていた。
志之助が差している傘に、そばにいた松安も無理やり入ってくると、悔しそうに舌打ちをした。
「くそぅ。なんだって気付かなかったかな、俺は。生意気に、雪輔まで用意周到ではないか」
「狐の娘をもらう立場ですからね。良い旦那様になりますよ、甲斐様は」
にこりと笑って、松安に返し、その視線を新郎へ向ける。
一人涼しい顔で傘を差し、嫁を待っていた雪輔の表情が、喜色に彩られる。
雨に濡れ、つやをまとった瓦屋根の門の向こうに、白無垢姿の新婦が姿を見せていた。
おわり
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