壱の6




 少女の名はお菊という。江戸のはずれ、目黒の出身で、両親はすでにない。日本橋の両替商、近江屋に奉公に出ているということだった。

 日本橋といえば、ここから男の足でも半刻はかかる距離である。そんなところからここまで逃げてきたのか。

「いえ。先代様の三回忌で、寛永寺までお参りに行った帰りでしたから、そう遠い距離では……」

「寛永寺? 上野の?」

 はい、と少女は頷く。志之助が思いっきり嫌そうな顔をしたのに、少女はびっくりした。征士郎も、あまりうれしそうな表情ではない。

「あの、何かあたし、おかしなことを言いましたか?」

「ん? あ、いや、こっちの話。そうか、寛永寺にお墓があるということは、相当の大店なんだね」

 そうなんですか?と少女が首を傾げ、征士郎が確かにと頷く。

 なぜ志之助がいかにも嫌そうな顔をしたかといえば、上野寛永寺とは、志之助が僧侶になるのを諦めた直接の原因だからだ。

 江戸の比叡山といわれる寛永寺は、数多くの堂塔を有する、徳川将軍家の菩提寺でもある寺である。東の比叡山という意味で東叡山とも言われており、比叡山と同宗派の寺院だった。志之助とも、もちろん同宗派である。

 志之助が最初に比叡山を降りたのは、この寛永寺に遣わされたためであった。ところが、その理由というのが志之助の曰く「くだらない」ものであり、そんなことを命じる比叡山に嫌気がさして、こうして逃げ出したというわけだったのである。

 当然山では志之助の出奔を許しているわけもなく、したがってできれば比叡山にも寛永寺にも近づきたくなかった。

 その名をこんなところで耳にするとは、それこそ寝耳に水である。

「で、何でまた、お墓にお参りに行った君が、あんな男どもに追いかけられていたんだい?」

「それは……」

 やっぱり言えないらしい。はあ、と溜息をつき、志之助はそこに立ちあがった。話を変える必要があるとき、それを察してきちんと変えられるのは志之助のほうだ。征士郎では、押し黙ってしまうのが関の山。

「おはるさん、遅いねえ。そろそろ行かないと、寺子屋の子供たち、待たせちゃってるし」

 別に遅れたって構わないけどな、と言いながら、征士郎が相槌を打った。寺に近所の子供たちを待たせているのは事実である。否定するわけにもいくまい。

 うわさをすればなんとやら。長屋中から掻き集めてきたらしい着物や帯やを持って、おはるが店先に現れた。長屋に住む流しの髪結い、おつねも一緒だ。

「あらら、おつねさんまで。すいませんね」

「いやあよ、志之助さん。そんなにかしこまらないでくださいましな。このくらい、ご恩返しさせていただかなくちゃあ、同じ長屋の者として申し訳が立たないわ」

 なんて言ってけらけらと笑って、まだ二十三歳というおつねが征士郎のそばに座っているお菊を見つける。ご恩返し?とおはるが首を傾げたのには、気づいていないらしい。

「あなたね、志之助さんに匿われてるっていう女の子は。名前は?」

「菊です」

「お菊ちゃんね。志之助さん、二階借りますよ。とにかくその髪を結い直しましょ。そんなばらばらになってちゃあ、見つけてくださいと言わんばかりよ」

 髪結いという職業柄、着物の見立てや着付けもうまいおつねは、長屋中から掻き集めてきた着物を抱えているおはるを連れて、二階へあがっていった。階段をのぼる途中で声をかける。

「中村様は、寺子屋に行っちゃってくださいましな。お菊ちゃんを待ってるなら、後であたしがお寺まで送り届けますから」

 ならばそうする、と言えるのも、このおつねの人となりをわかっているからだ。征士郎はその言葉に甘えて、そそくさと出かけていった。志之助も、着替え中だから出ていっとくれ、という二人の女に追い出されて、店のほうへ戻って行った。

 しばらくして、おばさんとお姉さんに連れられて、お菊が二階から下りてきた。

 こうしてみると、なかなか整った顔立ちであったことがうかがえる。髪も走ってぼさぼさになっていたのを直してもらったことで、なかなか良い感じに仕上がっていた。

 さすが、おつねの腕は神田界隈一である。店を構えないでも一人で生活していけるのだから、相当の腕がある証拠だった。

「おや、美人に作ってもらったね。おつねさん、ありがとう」

「いえいえ。志之助さんに構ってもらえない分、目いっぱいかわいがってやった結果ですよ」

 意地の悪い言い方で、しかしおつねはくすくすと笑った。志之助も軽く肩をすくめる。

「また何かあったら言ってくださいましね。あたしは、まだまだご恩が返せてないんですから」

「おつねさん。そんなこと、良いって言ってるじゃありませんか。義理がたいお人だねえ」

 くすくすと何やら困ったような楽しいような複雑な顔で志之助は笑った。何の話だか見当もつかず、おはるとお菊がそのそばで顔を見合わせている。さてと、と声をかけて、おつねが商売道具を持って立ちあがった。

「それじゃ、あたしは商売がてらこの子を寺子屋まで連れていきましょうか」

「そうしていただけますか。すみませんね、何から何まで頼ってしまって」

 そういうことを言わないでくださいよ、と笑って、おつねはお菊の手を引いて店先を出ていった。

 見送って、志之助がおはると二人きりで残される。二人が見えなくなって、おはるは志之助を見上げた。どうしました?と訊ねられて、おはるは少し首を傾げる。

「おつねさんのご恩って、いったい何のことだい?」

 ずっと気にしていたらしい。

 志之助は軽く苦笑してみせた。とりあえず、自分がつい二年前まで修業僧をしていたことは、あまり他人には知られたくないのだ。ごく平凡な修業僧ならまだしも、志之助はまともではない。

 行きがかり上おつねには知られてしまったが、これ以上色々な人に知られるのは困るのだ。さて、どうやって誤魔化したものか。

「まあ、色々とありましてね。そう大したことじゃないんですが、おつねさんったらかなり気にしちゃってるみたいなんですよ。俺は当然のことをしたまでですし、いいって言ってるんですけどねえ」

 嘘は言っていない。具体的なことを全部省いてしまっただけで、何だか煙にまけそうな気配だ。

「ふーん、色々ねえ。まあ、なんでもいいけどね。ちょいと気になっただけだから。それじゃ、あたしはこれで」

 用事も終わって、どうやら家に用事を残してきたらしく、おはるはあわてて帰っていった。その後ろ姿を見送って、志之助は柄にもなくほっと胸を撫で下ろした。





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