参の7




 それから、ふと、征士郎が腰に刀を差していないことに気付いた。

 遠い昔から生きている狐の神だ。人々が腰に刀を差す姿はここ最近のもので、特に違和感を感じてもいなかったのだが、そういえば、この者ははじめて来た時は帯刀していたと、今更気付いた。

『征士郎と申したな。そなた、腰の物はいかがした?』

 言われて、そばにいたおせんも気付いたようだ。あら、と声を上げる。

 狐の神に比べて、彼女はこの時代にのみ生きている人間だ。武士が帯刀していない不自然さを良く知っている。だからこそ、驚いてしまう。それは、武士であると自覚しているなら非常識なほどのことだったからだ。

 あぁ、と自分の左の腰を見下ろし、征士郎はふっと笑った。

「志之助を助ける時に、折ってしまった」

『……折れた刀はいかがした』

「急いでいて、その場に捨ててきてしまったのだが。まずかったのか?」

 そうか、と稲荷神は困ったように腕を組んだ。そして、征士郎を見定めるように見つめる。

『そなたも妖物の血を引いておるな』

「うむ、人魚と聞いている」

『ならば、妖刀でも扱えよう。一か八かの賭けではあるがな。我ら狐族に伝わる神剣じゃ。あれならば、九尾狐にも十分歯が立つ。この雷椿殿もそうだが、九尾狐は鉄を自在に操る力を持っておる。狐の神剣は空から降ってきた未知の素材を鍛えたものゆえ、奴には操れぬ。置いてきたそなたの刀は、今頃向こうの凶器となっているはずじゃ。心してかかれ』

 さて、その神剣を取りに行かねば、と稲荷神は座っていた社の階段から腰を上げる。それを、隣で聞いていた雷椿が、何を思ったか手で制し、寄りかかっていた柱から身を起こした。

『俺が取ってこよう。あんたが行くより何倍も速い。俺自身が手を貸すのは気が進まんが、そのくらいの使いはしてやる。あんたの娘のために、な』

『ほう。気が変わったか』

『ふん、あんたの親心に折れてやっただけよ。確かにこの人間ならばあれも操って見せるだろうからな』

『ならば、急いでくれ。おそらくは、今夜から明朝が勝負じゃ』

 決めたならば、行動は早い。こくりと頷き、雷椿は境内へ走り出した。そのまま姿が一瞬にして狐の姿に変わり、九本の尻尾で地を蹴った。次の瞬間、その姿ははるか上空へ飛び上がり、姿を消してしまう。

 見送って、稲荷神は征士郎を再び見やった。

 なるほど、人魚の子か。道理で並外れた霊力を秘めているわけだ。

 普段は志之助という異常なほどの能力者の影にすっぽりと隠されてしまっているが、この征士郎が内に秘めきれずに放出する霊力は、とても人間の物とは思えなかった。自分の血を引く娘よりも、はるかに強い。武道を極めたことによって、気の使い方を心得ているために、我知らずに制御できていて、その分気の力が純粋なのかもしれない。

『して、志之助とやらは今いかがしておる?』

「俺の言いつけを守っているなら、今は自宅で眠っている。素直に約束を守っているとも思えんが、式神たちが守っているから大丈夫だろう」

 さすがは自分の妻だと公言するだけのことはある。良くその性格を理解していた。もしその言葉を聞いていれば、志之助は恥ずかしそうに俯いただろう。

 断言する征士郎に、ほっほっと稲荷神は笑った。

『なれば、早う帰ってやると良い。おせんは我が守る故、心配には及ばぬ』

 稲荷神にとっては、この人間と友人の甥は娘の命を守ってくれた恩人だ。普段は見せない心遣いも、その恩義による故なのだが、征士郎には伝わっているのかどうか。ぺこりと頭を下げた。

 現れた時と同様に飄々と帰っていく後姿を見送って、稲荷神は寄り添う娘の肩を抱き寄せ、空に向かって話しかけた。

『遠野。おるか』

『へい』

 見事な江戸弁で答え、狐顔の男が姿を見せる。下谷稲荷に使える眷族の長である男だが、これはこの辺りに昔から住み着いていた狐の長であった。この辺りに人間が都を作って、おかげで住処を追い出されてしまった狐で、不憫に思って引き取ってやった経緯があり、御守様と呼んで慕ってくれるが、昔からの縁ではないのだ。

 恩義で繋がった双方だが、稲荷神はその眷属に短く命じた。

『手の者を使うて、武蔵野のすべての稲荷神の元へ使いに行ってくれ。多摩の森の稲荷神を喰ろうた化け狐に制裁を加えてやるわ』

『へい』

 確かに、彼らは眷属とはいえ、ただの狐だ。この程度の伝言にしか役立つことはない。だが、それでこの稲荷神には十分だった。後のことは、それぞれの稲荷神が決めることだ。しかし、この辺り一体に幅を利かせていた長老に近い老いた稲荷神を平気で滅ぼした悪者が、自分たちと同じ狐であったことに、それぞれの稲荷神たちも怒りをあらわにしていた。号令をかけるものが現れれば、従ってくるはずだ。

 その号令を、自らかけようというわけである。娘に目をつけた化け狐に報復するためにも、そして、その娘を助けるために命すら投げ出してくれた、亡き友人が命をかけて守った愛息子のためにも。

 これは、武蔵野に住むすべての狐たちを巻き込むに足る、狐の大戦争でもあるのだ。異国からやってきた妖怪に、いつまでも大きな顔をさせておくわけにはいかないのだ。神の威厳を保つためにも。

『頼むぞ』

 この主神に、命じられたことこそあれど、頼まれたことなどなかった遠野は、その言葉にはっと顔を上げ、顔面に喜色をはっきりと浮かべて、深く頭を下げた。





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