参の2
烏天狗の一つに道案内を受け、征士郎は慎重に馬を進めた。
その鬱蒼とした森は、稲荷神の神域だと聞いていたわりには神聖さにかけ、それどころか気味の悪い風が吹いている。まるで、呪いの森に足を踏み入れたかのような錯覚すら覚える。
先を行く一つも、周りを注意深く見回していた。おそらくは、逃げ出してきた場所を通り過ぎてきたのだろう。途中で一旦止まり、先導する速度が落ちた。
今は、志之助を探しながら、進んでいく。完全な雑木林で、複数の樹種がまばらにその枝を広げている森だ。先を木々に遮られながら、烏天狗と馬は慎重に前へ進む。
ふと、何かの叫び声を耳にした。一つがその場に止まったのと、征士郎が馬を止めたのは、同時だった。
じっと、耳を澄ます。
『……てぇ……あああぁぁっ』
「しのさんかっ」
それは、実に聞きなれた声だった。かすかではあるが、確かに志之助の叫び声。
征士郎は馬を飛び降りた。
「疾風。屋敷に帰りなさい」
馬の首を叩いて、命じる。馬は、征士郎の言葉がわからないらしく、困ったように征士郎を見返した。
一つが、征士郎の傍らに降りてきて、片手を上げる。指差した先には、こちらへ下りてくるもう一匹の烏天狗がいた。
「兄上の屋敷まで、馬を届けてくれるか?」
それを、一つがその天狗に指示したのだろう。こくりと頷いて、降りてきた烏天狗は馬の手綱を引いた。烏天狗に導かれて馬が帰っていく。
兄に借りた馬を見送り、征士郎は一つと共に、声のした方を振り返った。
「一つ。行くぞ」
征士郎の声にしたがって、一つは大きく翼を広げ、飛び上がった。
征士郎と一つは、志之助の悲鳴に導かれて森を進んだ。そこは、木がなぎ倒されて無残に切り拓かれた場所だった。
午前の明るい光が、場違いなほど平和に降り注いでいた。
見えたのは、異様なほどに育った蔦と、巨大な狐の後姿。尻尾は九つ生えていて、ゆらゆらと揺れている。一本一本が太く、叩き下ろせば人間など潰されそうなほどだ。
志之助は、化け物じみた蔦に絡み取られて、宙に浮いていた。両手両足を縛られ、着物は切り裂かれて、艶かしいほどに滑らかな肌に幾筋もの傷が見える。
「しのさんっ」
『虫けらめ、邪魔をするでないわ』
上げられた声に気付いたのだろう。思わず叫んだ征士郎に、九つの尻尾が襲い掛かる。大きさの割りに思いのほか速い動きをする尻尾は、しかし一本としてその目標を捉えることが出来なかった。
尻尾から逃げ、そのまま志之助に走りよっていく。絡まる蔦に、長年使い慣れた刀を叩き込む。
手ごたえどころか、刀は蔦に弾き返されてしまった。それも、真ん中でパキリと折れて。
「なっ!?」
『こざかしいわ。人間風情が』
正面に回った九尾狐の姿は、まさしく狐そのものであった。大きく裂けた口に鋭い眼、先のとがった大きな耳、ふさふさの毛並み。聞いていた大怪我など、どこにも見当たらない。強烈な妖気が征士郎を襲う。
だが、狐の前足が征士郎を捉える寸前で、烏天狗が割って入り、征士郎を抱えて飛び退った。どちらも怪我することなく、雑草で覆われた地に叩きつけられる。
「悪い、一つ」
礼を言う征士郎に、自分には構うな、とばかりに、一つはすばやく飛び上がる。そして、示したのは征士郎の懐だった。
懐に手を入れ、征士郎はそこに呪符を入れてきたことに、今更ながらに気がついた。
呪符を握り締め、愛しい恋人を振り返る。責め苦は留まることなく志之助を苛み、征士郎がそこにいることも気付いているのかいないのか、苦しみと快楽の狭間で苦悶に満ちた表情を浮かべている。ただ、唇だけは懸命に閉ざして。きっと、開けば嬌声を上げてしまう自分を止めるために。
その志之助に、征士郎はめいっぱいの声を張り上げた。
「しのさんっ! 蛟を呼んでくれっ!!」
叫ぶと同時に、横に逃げる。まるで邪魔な蝿を追うように、九尾狐は一つと征士郎に手と尻尾を繰り出してくる。一つところに留まっているわけには行かない。
九尾狐とて、ここで大きな力を使って追い払うわけには行かないのだ。せっかくの贄を、殺してしまってはもったいない。こんな力のない人間風情と大した力もない烏天狗などのために。
九尾狐と征士郎の追いかけっこは、行ったり来たりを繰り返す。
「呼べ! 蛟をっ!!」
「あっ……っく」
「しのさんっ」
「せ……さん……」
征士郎の声が、きっと聞こえるのだ。今まで聞いたこともない弱々しい声で、自分を呼ぶ志之助に、征士郎は悔しさのあまり舌を打った。
「くそっ」
半分に折れた刀は、攻撃にも防御にも使えない。折れた刃先は蔦に突き刺さり、徐々に飲み込まれていく。
征士郎は役に立たない刀を捨て、呪符を両手で空に掲げた。
「来いっ! 蛟っ!!」
「……みず……ち……」
志之助の声が、届いた。征士郎に掲げられた呪符が、独りでに筋を張り、征士郎を弾き飛ばす。電気を受けたような衝撃に、征士郎自身もその呪符から手を離して後ずさった。
一瞬後。
あたりを眩しい光が白く染め上げる。目を焼かれ、九尾狐も悲鳴を上げた。征士郎も目の前に手をかざす。
光が収まった途端、征士郎の身体は宙に浮いた。慣れたたてがみの感触がその存在を知らせる。
現われ出たのは、伝承上の生き物、蛟の姿だ。頭に征士郎を乗せ、一つをその長い胴で庇い、口から鋭い水を放つ。
蛟の放った水は、その水圧で蔦の蔓を切り、志之助を開放した。落ちてくる志之助を、頭で受け取る。さらには、頭の先客、征士郎が受け止める。
「蛟。江戸へ」
本来の主人ではない征士郎の指示に、蛟はすばやく尾を振って狐の顔を強打すると、明るく青い空へ舞い上がっていった。
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