弐の9




 翌朝。

 いつもより良く鳴く鳥の声に起こされて、征士郎は目を覚ます。窓が開け放たれたままなのが、原因であるらしい。小鳥が窓枠にとまって鳴いている。

 ふと隣を見ると、志之助がいるはずの布団はきちんと畳まれていて、その上になにやら書置きが乗せられている。

 枕元には、松安のものらしい手紙が届いていた。同行できない代わりの紹介状のようだ。

 志之助はどこへ行ったのやら、と首をかしげながら身体を起こし、征士郎はふと、嫌な予感を覚えた。

 なんだか、こんな状況に覚えがある。

 確か、二年前志之助と初めて会った翌日も、征士郎の知らないうちに志之助の姿が消えていて、布団が綺麗に畳まれていたのだ。あの時は、志之助を見つけたとき、近所のならず者と追いかけっこをしていた。一緒に寝ていた征士郎を巻き込まないようにとの配慮だった。

 もしや、あの時と同じなのでは。そう、感じてしまっても不思議ではない。

 大慌てで書置きを手に取る。

 一読して、征士郎は思わず、その場にへたり込んでしまった。

 書置きには、次のように書かれていた。

『中村征士郎様
 おせん殿に狐の迎えが来たので、多摩の九尾狐に会いに行って来ます。必ず戻ってきますから、心配しないで待っていてください』

 もしかしたら、志之助の中では、昨夜からすでに一人で行く決心がついていたのかもしれない。今にして思えば、昨夜の甘え方は確かに少し不自然ではあったのだ。志之助が征士郎に甘えることなど、滅多にない。

 ただ、自分の出生については敏感な反応を示す志之助にとって、叔父に当たる古九尾狐に会ったり、母を失った理由に自分が絡んでいるらしいと知ったりと、心を痛めることが多かったので、それが征士郎に甘えたい理由だと思っていた。

 もちろん、そうでないわけではないのだろう。ただ、それだけではなかっただけで。

 だが、問題は、志之助の正体だ。おせんは稲荷神の娘だが、助けに走った志之助も、古九尾狐の息子だ。九尾狐にとっては、どちらもうまそうなご馳走だろう。そのうえ、おせんと違って志之助はそれなりの修行を重ねている分、力がある。おせんの生まれたままの力を吸い取るよりも、志之助の育った力のほうに目が行くことは、想像に難くない。

 大変な事態に思い当たって、征士郎は深いため息をつくのだ。

「あの馬鹿。一生そばにいると言ったではないか」

 言葉に出して呟けば、征士郎自身に起き上がる気力と思考力が戻ってくる。

 身支度を整えて、愛刀を引っつかみ、征士郎はどたどたと音を立てて階段を下りていく。

 土間では、早寝早起きの加助が朝食の準備をしていた。

「おはようごぜぇます、征士郎様」

「あぁ、おはよう、加助さん。悪いが、緊急事態で出かける。おつねさんには一人で行ってくれるよう、伝言を頼む」

 履き潰しかけている草履を引っ掛けながら、加助にそう言って、返事も待たずに裏口を飛び出した。いってらっせぇませ、とのんびりした加助の声が追いかけた。

 松安の書を握り締め、ひたすらに走る先は兄の元だ。四谷は征士郎の足では遠い。中村家に一頭だけ飼われている馬を拝借しようというわけだ。

 しっかり閉められた門を、征士郎はらくらく飛び越えて中へ入ってしまう。普段ならもちろんこんな非常識なことはしないが、非常事態だ。大目に見てほしい。

「兄上。起きてくれ。馬を貸してほしい」

 勝手を知っている自分の実家だ。庭に回って空きっぱなしの縁側から入ると、兄の寝室の障子を開けた。まだ寝ていた勝太郎が、眠い目をこすって唸る。

「……なんだ、征士郎。こんな朝早くに」

「緊急事態なんだ。しのさんの命が危ない。起きてください、兄上」

 同じ神田界隈でも、明神下から中村家までの距離はただ事ではない。征士郎の息もさすがに切れている。だが、征士郎はそれどころではないとばかりに勝太郎の布団へにじり寄り、その端をパンパンと叩く。

 緊急事態と聞いて、勝太郎もようやく目を覚ました。

「何? 緊急事態と?」

「そうです。しのさんが殺されてしまう」

 息はぜぇぜぇと苦しそうなのに、本人がまったく自分の身体を気遣っていないことで、その緊急性は伝わった。何がどうなっているのかわからないが、急がなければならないことだけはわかった。

「よし、わかった。馬を貸そう。戻ったらわけを聞かせてくれ」

 むくりと起き上がって、勝太郎は寝巻きのまま寝室を出る。征士郎も、脱ぎ散らかした草履を拾って、勝太郎を追った。

 屋敷の外れに、小さな厩がある。そこに、一頭だけ馬が繋がれていた。普段は勝太郎が出勤に使っているが、今日は勝太郎が休みのため、馬も休みのはずだった。とはいえ、太陽と共に生きている馬に、今日は休み、などという意識はないだろうが。

「おはよう、疾風。今日は征士郎の手伝いをしておくれ」

 手馴れた仕草で鞍をつけ、手綱を征士郎に渡す。そしてそこから離れる勝太郎に、征士郎は握り締めていた手紙を差し出した。

「高遠様の御三男直筆の紹介状です。すみません、同行できなくて」

「何、気にするな。これはありがたく使わせてもらう。それより、志之助殿を頼むぞ」

 志之助は、勝太郎にとっては弟の嫁であり、家族の一員だ。その人の一大事ともなれば、勝太郎も気をもんでしまう。それを助けられるのが弟だけなのであれば、協力するのもやぶさかではないのだ。

 兄にありがたい言葉をもらって、征士郎は大きく頷いた。そして、勝太郎が先回りして開けてくれる木戸門を、馬を駆って飛び出していった。

 江戸城を守る内堀にそって、馬は西へ向かいひたすら走る。通勤の武士がちらほらと見られる早朝。馬のひづめの音が朝もやに吸い込まれていく。

 人の足に比べれば数段速い速度で、征士郎は四谷に辿り着いた。まず向かうのは片桐家だ。志之助に助けられておせんが屋敷にいれば、行き先を聞けるかもしれない。一縷の望みがあれば、そこに尋ねていくしかないのだ。

 片桐家の門の前には、おせんが立っていた。馬で駆けてくる征士郎を見つけ、手を上げる。

 その姿は、眠っているところをさらわれてしまったのか、薄い襦袢のままだった。ただ、その肩に着物をかけて、身体を覆っている。明らかに、無防備な姿だ。

 良く見れば、おせんのそばに烏天狗の姿があった。烏天狗の数は全部で五匹。

「烏天狗たち。おせん殿を助けてくれたのか」

「中村様。早く、志之助様の元へおいでくださいまし。志之助様が私の代わりに捕まってしまわれているのです」

 だから早く、とおせんは征士郎に訴える。もちろん、と征士郎は頷いた。

「場所は?」

「森の中で、私にはまったく……。けれど、助けてくださった天狗様たちでしたら」

 そういって、おせんは取り囲む黒い生き物を見回す。そのうちの一匹、額に大きな傷を持つ烏天狗が、進み出てきた。差し出したのは、一枚の呪符だ。

「これは……。蛟の符ではないか」

 受け取って書かれた文字を見て、征士郎は驚いた。その烏天狗はこくりと頷いた。それから、軽く地を蹴ってその場に飛び上がる。

「しのさんが、これを一つに預けたのか?」

「それは、志之助様がその天狗様に、中村様にお渡しせよと預けられた符です」

 一つに問い返した言葉に、答えたのはおせんだった。その場に居合わせて、その姿を見ていたのだろう。

 それから、その先のまだ口に出していない問いにも答えた。

「私を逃がしてくださるので精一杯で、なぜお渡しになったのかはわかりませんが。おわかりになるのですか?」

「いや。だが、もしかしたら……」

 この呪符を渡されたからといって、何も力を持たない征士郎が蛟を呼び出せるはずはないのだが、志之助としては何か意図を持って渡したのだろうから、意味があるはずなのだ。

 とにかく、その呪符を大事に懐にしまって、征士郎はおせんを取り囲む烏天狗を見回した。

「前、後、右翼、左翼。おせんさんを頼むぞ」

 頼まれた四匹は、それが自らの主人の命令でもあったらしく、揃って頷いて返した。そして、征士郎のそばに浮き上がるもう一匹を見上げる。

 促されるようにして、征士郎もそれを見上げた。

「一つ。道案内を頼む」

 そちらは、志之助の命令ではないはずだ。だが、一つと呼ばれた烏天狗は当然のようにその頼みに頷いて返した。

 はっ、と掛け声をかけ、征士郎が乗った馬が再び駆け出す。それに併走するように、一つも翼を羽ばたかせた。

 朝もやのその先へ消えていく馬と一匹の烏天狗を見送って、おせんは祈るように呟く。

「どうか、お二人ともご無事で」

 それから、ようやく自宅の門をくぐっていった。肩にかけていた着物に袖を通し、歩きながら前を合わせ、すでに起きて働き始めているはずの使用人を大きな声で呼びつける。

「およね。およねはいないの?」

 四匹の烏天狗は、そのそばからは離れ、しかしこの屋敷を守るように、二匹は門の上に、二匹は屋根の上に、それぞれ飛び上がっている。

 遠くから応える声に、姿が見えないうちにおせんは用事を言いつけた。

「早籠を呼んでちょうだい。でかけます」

 それから、足早に自分の部屋へ入ると、身なりを整えていたらしいが、しばらくして早籠が来たとの報告と共に部屋を出てきた。またも足早に玄関を飛び出し、籠かきに行き先を告げる。

「下谷稲荷まで、急いで頂戴」

「へい」

 それは、彼女が考えうる限りの、そして出来うる限りの、志之助を助ける方法だ。つまり、父親に助けを求めること。それが無理でも、知恵を借りること。

 なにしろ、自分を助けるために志之助は犠牲になってしまったのだ。ならば、助けられた自分はそれなりの恩返しをしなければならない。そして、その手段を実父が持っているのであれば、頼みに出かけるのは当然のことだ。

 きっと、おせんに関わらなければ、志之助は化け狐に目を付けられることはなかったはずなのだ。とすれば、これは自分の責任だった。

(どうか、間に合って)

 下谷稲荷に急ぐ籠の中で、おせんはひたすらに祈っていた。





[ 75/253 ]

[*prev] [next#]

[mokuji]

[しおりを挟む]


戻る



Copyright(C) 2004-2017 KYMDREAM All Rights Reserved
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -