弐の6




 結局、何の解決策も無いまま日が暮れて、人間たちは下谷稲荷を退出することにした。

 とはいえ、もうすぐ日も沈んでしまう。男だけなら、歩け、とも言えるが、長い間気持ちを傷められてきたおせんを思えば、そんなことは志之助には言えず。

「蛟。ちょっとお願い」

 懐から出した短冊を空にかざし、そう言った。

 呼ばれて、現れたのは長い身体を持った生き物だ。身体は固い鱗で覆われ、頭の辺りにはたてがみが生え揃っている。長い首の下にある小さなごつごつした手には鋭いつめ、そして、そのさらに先に足があり、長い尻尾の先にも柔らかな毛が生えている。顔は縦に長く、大きく裂けた口の中には鋭い牙も見える。

 一見して龍のようにも見えるが、ひげと角がないのと、本物の龍を知っているので比較できるが、たてがみが短い。反対に言えば、その程度の差である。それが、龍が龍になる直前の姿と言い伝えられる空想上の生き物、蛟の姿である。

 呼び出されたその生き物は、志之助が頼みたいことを志之助の言葉を受ける前に察したらしく、その身体を地に横たえた。

「乗ってください。空を行きましょう。お疲れでしょ?」

 本来であれば、式神をこんなことに使うなど、許されないことだろう。だが、志之助はまったく構う気配はなく、蛟もまたまったく気にした様子がない。それどころか、志之助に呼んでもらえたのが嬉しい、とばかりに嬉々としてその命令に従っているように見えた。

 志之助が先にその背に跨り、おせんを引っ張り上げる。男なら足を上げて何とか届く高さだろうが、着物姿の女にこの高さは無理だった。ついでに、生き物の背中なので、その距離が意外とある。

「みなさん、乗りました?」

「俺は良いや。八丁堀はこっからの方が近いから」

 征士郎もその背に乗ったところで、雪輔は動こうとしないままそう言った。さっと手を上げ、後ろに下がる。

 その言葉に、おせんは許婚の方へ身を乗り出した。

「雪輔様っ」

「おせん。また近々会いに行く。今度こそ、祝言を挙げよう。お前が欲しい」

「雪輔様……」

 確かに、親が決めた許婚かもしれない。だが、二人の間にはそれだけではない絆が、しっかりと結ばれていた。志之助と征士郎は、そんな恋人たちのやり取りに、顔を見合わせ、笑いあった。

「行きますよ。掴まって」

 志之助の合図と共に、蛟はゆっくりとその高度を上げていく。そして、背に乗せた人間たちを振り落とさないように、これまたゆっくりと空を飛び始めた。

 地上には、見送って手を振る雪輔の姿だけが残されていた。

 下谷から四谷まで、歩けば相当の距離だが、空を渡って江戸城を飛び越えれば、あっという間に着いてしまう。

 初めての空の旅に、最初は恐そうにしていたおせんだったが、慣れてくると下を覗き込む余裕も生まれたらしい。

 足元はるかにある地上は、赤い夕日に照らされて、全てが茜色に染め上げられていた。江戸城を囲む鬱蒼とした森も、日の当たるところは赤く、日の影は一段と濃く、陰影が見るものを圧倒する。

 空から見た江戸城は、広大な敷地の一角に屋敷が点在する、百万都市の江戸城下に比べれば贅沢なほどゆったりした造りだった。

 江戸城を越えて、その先にも、同じようにゆったりした敷地を持つ屋敷が二つ、目立って見える。間に挟まれているのが、目的地、四谷だ。

 空を飛んでいる間にも過ぎて行った時間は、時を逢魔が刻に入っていた。空は明るいのに、周りがやけに暗く感じる、不思議な時間帯。夜闇にまぎれるまでも無く、この時間帯に怪現象が起こっても、例えば突然蛟が降りてきても、人の気にも止まらない。

 降りたのは、片桐家の玄関前だった。

 人間たちを降ろし、蛟は一旦その姿を隠す。おせんは自宅の方へ、一歩下がると、男たちに深々と頭を下げた。

「ありがとうございました」

「いや、どうってこともねぇよ。だが、結局問題は何にも解決しちゃいないんだ。これからも何が起こるかわからねぇ。気をつけなきゃあな」

 代表して答えた松安の言葉に、おせんは、はい、と素直に頷いた。さらに、志之助が続ける。

「式神を守りに付けていきます。何かあったら、連絡をください。葵、頼むよ」

 呼ばれて、古風な狩衣姿の平安武将の姿が現れた。なかなかの色男で、ただ、頬に葵の花の模様の痣が浮かび上がっているのが気になる程度だ。男は、頭を下げて、その場から姿を消した。

 おせんに見送られて、一行はその場を後にする。

 大通りに出て、松安は、志之助たちとは反対側だから、と言って赤坂方面へ別れていった。もうそろそろ提灯も欲しくなる宵の口、志之助と征士郎はようやく二人きりに戻る。

 少し歩いて、志之助はふと立ち止まった。後ろを振り返り、首を傾げる。そんな行動に、征士郎が心配そうな顔を見せた。

「どうした?」

「なんだか、視線を感じるんだ。こう、首の辺りにちくちくと」

「見られているのか?」

「わからない。気のせいかな?」

 その言葉に偽りは無いらしく、志之助は軽く首を傾げ、困ったように笑って征士郎を見やる。

「なんか気になるから、少し寄り道しても良いかな?」

「あぁ。まくんだな? ついでに路地に入って、蛟に家まで乗せてもらおう」

「疲れた?」

「しのさんが、だろ? 疲れた顔をしている。無理はしないで、早く帰ろう」

 うん。

 心配されて、否定することも出来ず、志之助は素直に頷いた。

 すぐ近くの路地に入って何度か曲がると、志之助を追っていた視線もどこかへ行ってしまった。そして、その入り組んだ路地の裏から、再び伝承上の生き物が背に人間を乗せて飛び上がり、飛び去っていった。





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