弐の3
狐の術にハマるというのも、奇妙な感覚である。化かされるのをわかっていて身を委ねるのだから、好奇心と恐怖心の入り混じった感じが全員の心を襲う。
遠野は片桐家から提灯を一本拝借すると、そこへ鬼火を灯した。太陽も頂点に近い昼間時である。何だかそれも、不思議な感じだ。
遠野は、鬼火の灯った提灯を手に、全員を先導して先を歩き出した。そのすぐ後ろを、未来の妻の手を握った雪輔が、さらに、松安が続き、その後ろを志之助と征士郎が追っていく。
志之助の霊力による脅しと、征士郎の武力による脅しが、一番後ろから遠野を追い立てていて、それは逃げる隙を与えなかった。そうとわかって、逃走を諦めた遠野である。
しばらく、武家屋敷の白壁が続く道を進んでいた一向は、いつのまにか、自分が今どこを歩いているのかわからないようになっていた。
周りを過ぎていく景色が朧気で、ただ、提灯に灯る鬼火が彼らを誘っている。
一番後ろの志之助だけが、感心したようにニコニコと笑っていた。自分の力が強いだけに、他人の術中にはまることはほとんどない志之助だ。こんな体験は、意外と新鮮だったらしい。
やがて、そんなに歩いた感覚は無いのだが、いつの間にか一向は不忍池のほとりにいた。将軍様のいる江戸城からぐるりと半周回った反対側だ。太陽の傾き加減が、思った以上に時間が経っていることを示している。
「もう少しですよ」
そう言って、遠野は提灯の火を消してしまった。そのまま、先導するように寛永寺の方へ進んでいく。
下谷といえば、このすぐ近くだ。道はこれが一番の近道になるのだろう。だが、それを追って行って、志之助はきゅっと旦那の袖を握った。身体を縮めるように背を丸め、俯き加減で進んでいく。
征士郎は、そんな志之助に気付き、その肩を抱き寄せた。
「大丈夫だ。見つからないさ」
「うん……」
耳元で囁かれた声に、志之助は弱々しく頷いて返す。後ろで囁きあう声に気付いた松安が、後ろを振り返り、その光景に驚いた。
「どうしたんだい?」
「いえ、なんでも。……ほら、しのさん。もう過ぎるぞ」
本当に、通り道に過ぎなかったようで、道行きは町の方へ抜けていった。寛永寺の参道から抜けて、志之助の表情がようやくほっとする。
ほっとして、それでも気になるのか、志之助は後ろを注意深く振り返る。特に何の視線も追ってこないことはわかっているので、征士郎も、志之助の気が済むのなら、とその行動をただ見守っただけだった。松安だけが、そんな志之助らしくない行動に首をひねる。
やがて、遠野は小さな鳥居の前で足を止めた。
「着きやしたよ」
簡単にそう言って、鳥居をくぐり、中へ入っていく。
鳥居は、神域と常域を結ぶ玄関に当たる。神域に足を踏み入れれば、そこを仕切る神の意向に従わざるを得ず、人間の五感はその神に支配されることになる。
この神は、娘を迎え入れるためか、神域に足を踏み入れた一行に、この場にいる霊の存在が見えるよう、配慮していた。社の縁側に腰を下ろし、古い時代の貴族のように、直衣に烏帽子の姿で、手には笏を持ち、それで口元を隠しながら、客人と談笑中のようだ。
客人は、こちらは随分とラフな格好で、淡い色の小袖に半袴、それに少しよれた羽織を羽織って、柱にもたれてニヒルな笑い顔を見せている。
そこへやってきた人間どもに、双方ともすぐに気付いたらしい。客人に比べれば何とも清潔感ある姿の稲荷神は、縁側に立ち上がり、ひょいっと飛び上がった。常人では考えられない飛距離を見せ、人間たちの目の前に降り立つ。
『何やら大人数で来よったのぅ。我は娘一人で良かったのじゃが、困ったものじゃ』
異形なるものには慣れていない娘と許婚は、人間業ではない登場の仕方に、身をすくめてそれを見つめる。付き添いの松安も、とっさには反応できなかったようだから、おそらくこれも、驚いているのだろう。残る志之助と征士郎は、どうやら親子であるらしい両者を見比べ、互いに顔を見合わせた。
「おしかけまして申し訳ございません。お嬢さんの困った所作に相談を受け、付き添わせていただきました。志之助と申します」
『ほう、志之助殿と申されるか。これは、どうも、手を煩わせてしもうたようじゃ。詫びを申す。したが、困った所作と申すか?』
はて、どんなものだろう、と言わんばかりに、稲荷神は首を傾げた。ということは、思いあたりが無いのだろう。
そこへ、先客が稲荷神を追って近づいてきた。
『立ち話もなんだ、中で話したら良かろうよ』
『うむ、道理じゃ。皆、中へお上がり』
提案を受け、稲荷神は彼らを社の中へ導きいれる。狛犬ならぬ狛狐二匹が、その彼らを見送った。
人間たちを迎え入れ、全員に円座を勧めて、稲荷神は彼らと向かい合った。いや、娘と、向かい合った。懐かしそうに目を細める。
『母によう似ておる。その可愛らしい鼻のあたりがそっくりじゃ。懐かしいのぅ。会えて良かった』
「……本当に、父上様なんですか?」
向き合って、確かにどことなく似た顔立ちをしている男を見つめ、おせんはしかし、疑わしげにそう訊ねる。肯定を示して、稲荷神は大きく深く頷いた。
『済まなかったのぅ。そなたに辛い思いをさせてしもうた。そなたを育ててくれた父と母は、良くしてくれたようで良かった。我が育ててやれぬとはいえ、不憫じゃと心配しておったのじゃ』
確かに、人間ではない稲荷神では子育てなどできるはずもない。この神の言い分も、なるほど納得できる。
だが、ならば、おせんを産んだ母はどうしたというのか。
問いただそうと、横から口を挟みかけた雪輔に、稲荷神は先回りして答えを話し始める。
『そなたを他者の手に委ねねばならぬこと、そなたの母もたいそう心を痛めておった。だが、そう言ってもあれも身体が弱くての。子を産んだことに悔いはないと申してはおったが、あの身体では子育てはできぬ。泣く泣く手放したのじゃ。最後まで取りすがって名残惜しそうにしておったのが、今でも目に焼きついておる』
「……それで、母上様は?」
『もう、十年も前じゃ。元々身体の弱かったところに流行り病を患ってしもうて、あっけなく逝ってしもうた。最後に一目そなたに会いたいと、泣いておったのぅ。じゃが、眷属どもがそなたを見つけ出すことは出来なんだ。返す返すも口惜しいことじゃ。追ってやれぬこの身が、恨めしい』
そんなに言うほどに、惚れた相手だったらしい。辛そうに目線を落とし、娘に言い聞かせるようにただ淡々と話を紡ぐ。時折、泣き出しそうになるのを堪えているのか、言葉が震えた。
話を聞いて、実の両親にもその子を捨てるだけの事情があったことに、おせんは何故か心が休まる自分を感じていた。不思議なことが身の上に起こっているのが、何故だか冷静に受け止められている。そして、そういえば、と思い出す。
「私が拾われた時、両親はこの辺りに住んでいたと聞きました。その後、奉行所に職が決まり、引っ越したと」
『うむ。それで、眷属たちも見つけられなかったのじゃ。預けたはずの家に、違う家族が住んでおって、行き先が知れないと申しての。そなたを見つけ出すまでに、十年もかかってしもうた』
見つかって良かった、と稲荷神は嬉しそうに目を細めた。とても狐には見えない、普通の人間のような面立ちをした稲荷神だ。確かに、娘によく似ている。
その喜んだ顔が決定打だったのだろう。おせんは目に涙を浮かべ、父の膝に泣き崩れた。
「父上様っ」
『そう呼んでくれるか。ありがとう、我が娘よ』
いつのまにやら、この場が、二人の感動の再会に、湿っぽくなってしまう。志之助は、長く離れ離れになっていた親子の再会に喜ばしそうに微笑んで、征士郎と顔を見合わせ、肩をすくめた。彼女の奇行についても解決せねばならず、そのまま置いて帰るわけにもいかないので、彼らが落ち着くまで待っているしかなさそうだ。
[ 69/253 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]戻る