壱の9




 志之助が久しぶりの降霊術に力を使い果たして気を失っている頃、神田明神下の小間物屋『中村屋』に、買い物客でない客人があった。

 男性の二人連れである。一方は町方の同心らしいラフな格好の武士。一方はどうやら医者らしく消毒薬の匂いがかすかにする。

 迎えたのは、白髪交じりの初老の男が一人と、若い娘。それに、中年の女性が二人。そのうち、中年女性の片方は若い娘と銭のやり取りをしていて、男の二人連れに興味を引かれながら帰っていった。

 それは、加助、おつね、おはるの三人である。おはるは、店に志之助の姿がない時は、大抵それに気付くと勝手に手伝ってくれる、近所の大工の主婦である。人情味の厚い彼女は、この店をどうやら気に入っているらしく、何かと贔屓にしてくれるのだ。

 この三人の誰も、客人と顔見知りではなく、期せず、三人同時に嫌そうな顔を向けた。というのも、将軍家斉と仲良くなった頃から、武家の使いの武士が居丈高な調子でやって来ては志之助に厄介ごとを持ち込んでくるようになっていて、おかげでこの店の客に武士は嫌がられているのだ。

 三人の中では、正式に志之助に店番を頼まれているのは加助のみである。したがって、加助は腰を下ろしていた縁台から立ち上がると、客の応対に出て行った。

「主人はただいま留守にしておりますが、何のご用件でしょうか?」

「おや。……そうか。志之助殿は不在なのか。なれば、中村殿も同様であろうな」

 ふむ、と困ったような表情を見せたのは、医者らしい十徳姿の男だった。それを聞いて、加助はふと、相手に思い当たる。

「……あの、松安先生、でいらっしゃいますか?」

 今まで話で聞いている限りで、医者の知り合いは、赤坂にある診療所の医師、片瀬松安くらいのものだ。その人の類稀なる思考能力を志之助も征士郎も高く評価しているので、この二人に評価されるほどの人物として加助の記憶に残っていた。

 それに、志之助を陰陽師と頼って来る武士であれば、志之助の名前を知っているはずもない。

 困った表情で連れの武士を見返っていた松安は、名を当てられて再び加助に視線を向けた。

「いかにも」

「そうございましたか。ご無礼を申し上げました。志之助様でしたら、もうそろそろお帰りになられるかと。中でお待ちになりますか?」

 もう日も暮れますからね、と言いながら、加助は夕暮れた空を見上げる。緊張してこちらを伺っていたおはるが、促されてはっと顔を上げ、夕餉の支度っ、などと声を上げ、店を飛び出して行く。礼を言うおつねに、手を振って。

 慌しい中年女性の退場を見送って、松安と連れの武士は、加助の案内に従って店の中へと入っていった。

 この店。店舗側と生活空間が安い屏風で分けられただけのシンプルなつくりをしている。板の間の部分もあまり多くなく、客をあげられるような空間は本来ない。したがって、屏風を少し店側にずらして、円座を二枚、差し出した。

「志之助殿は、今日はどちらへ?」

「さぁ。少し厄介な事件を任せられたようで、あちこち行くところがあると聞いてますが」

 さすがに、江戸城に召致されたとは明かせないので、その程度で答えにする。ふぅん、と松安が頷く向かいで、連れの男が情けなく眉をさげて見せた。

「では、悪いところに来たのではないか?」

「といって、ここに来たことはこの……えぇと?」

「加助と申しやす」

「あぁ、どうも。……で、この加助殿から志之助殿に話が行くだろうから、そうすると心配させることになるだろう? ならば、相談してしまうのが良いさ。解決すれば御の字だし、できなくても手を煩わせないよう持ち込めばいい」

 整然と理由を述べ、どうだ、と胸を張る松安に、連れの男は思いのほか真剣に頷いていた。加助だけが、くっくっと笑ってくれる。

 そのうちに、店先でおつねが突然驚愕の声を上げて、こちらの注意を引いた。

「志之助さんっ!?」

 この店の主人の名を、悲鳴のような声で呼ぶので、屏風で仕切られた向こう側を、三人がほぼ同時に覗き込む。

 そこに、ぐったりした志之助を背負って戻ってきた征士郎の姿があった。

「あぁ、おつねさん。来てくれてたんだな、ありがとう」

「そんなこと、どうだって良いんですよ。それより、志之助さん。どうしたんですか?」

 なんでもないことのように、征士郎はおつねに留守番の礼を言う。背負った志之助は、征士郎の意識にすでにないらしい。そんな応対である。

 心配してくれる兄嫁に、征士郎は困ったように笑って見せた。

「しのさんにとって一番困った体質を使わされたもんで、参ってるだけだ。そのうち目を覚ますさ」

 この状況は、征士郎にとってははじめての事ではないので、目を覚まさない志之助も気にはなっていないのだろう。普通に返答して、客のいない店内を見回し、奥へ進んで行く。

 それから、屏風の向こうから顔を覗かせる三人の男に気がついた。

 一人は、店番を頼んだ加助だが、他の二人は予定にない。客人の一人は見知った顔で、征士郎は背負った志之助を下ろしながら、その相手に声をかけた。

「松安先生。いらしてたんですか」

 暖かな人の背中から板の間に下ろされて、志之助の眉がピクリと動く。目覚めが近いのか、眉間に皺が寄った。志之助を下ろした隣に腰を下ろした征士郎が肩を抱き寄せると、その皺が消えてなくなる。

 名を呼ばれて屏風の向こうから寄ってきた松安が、志之助の表情の変化に気付いて、驚いたように片眉を上げた。

「へぇ。気を失っていても、旦那の側は落ち着くものなんだなぁ」

「それだけ頼ってくれてるってことでしょう。で、松安先生の御用は?」

 感心した声を上げる松安にさらっと受け答えて、肝心の用を問い返す。志之助に頼られている自信からなのか、いつにもまして頼りがいある態度だ。いや、普段は志之助の陰に隠れてしまっているだけで、普段から頼りがいはある男なのだが。

「うん、まぁ、何だ。志之助殿に相談事があったのだが、この様子では日を改めた方が良さそうだ」

 いつ目を覚ますかわからない相手を待つよりは、明日にでもまた来て見た方が良いだろう、と判断して、松安はそう遠慮して見せた。ところが、志之助に相談、と聞いて、征士郎ははっと目を見張った。

「しのさんに相談事ですか。それは、ちょうど良かった。すぐしのさんを起こしますから、ちょっと待っててください」

 ちょうど良かった? 厄介ごとを持ち込まれた側が返す反応としてはこれ以上ない不思議な反応に、松安は連れの男と顔を見合わせる。征士郎はというと、さっそく志之助を起こしにかかっていた。

 本当に、もう目を覚ますところだったのだろう。少し揺り動かされただけで、うーん、と不機嫌そうに唸り声を返す。

「しのさん。そろそろ目を覚ましてくれ。荼吉尼天からの予言がすでに現実になってるんだ」

「……予言?」

 問い返しは、松安からだった。とはいえ、もちろん、その問い返しに答えが返ってくることは期待していない。思わず口をついた独り言である。征士郎の方も、聞こえていなかったのか、まったく反応を示さずに、志之助をゆさゆさと揺すっている。

「……んー。頭が揺れるぅ」

「おぉ、起きたな。しのさん、大至急目を覚ませ。仕事が始まっているぞ」

「しごとぉ? ……へっ? 仕事!?」

 つい先ほどまで寝惚けていた志之助が、ようやく脳に血が巡ったのか、がばっと起き上がる。急に身体を起こしたので、体当たりされそうになって征士郎が少し身を捩った。

 志之助の寝惚けぶりも、こうした慌てぶりも、そうそう見られるものではない。居合わせたおつねも初めてだったようで、驚きに目を丸くしていたが、やがて、ぷっと吹き出した。

「あっはっはっ。やぁだ、志之助さん。おっかしいっ」

「……志之助殿でも、寝惚けるんだなぁ」

 一方で、松安が苦笑を伴い感想を述べる。傍らで、加助がクックッと笑っていた。

 さて、征士郎としては、こんな志之助にも当然慣れているせいか、いつまでも笑っていられる状況でなく、がしっと志之助の両肩を掴み、顔を覗き込んだ。

「しのさん。目は覚めたか?」

「……うん。何とか。……えぇと。どういう状況?」

 なにしろ、意識を失う直前はすぐ近所の神社にいたわけで、目が覚めたら自宅で、これだけの人に囲まれていれば、混乱してしまっても仕方あるまい。首を傾げてしまう志之助の頭をふわふわと撫でて、征士郎はとりあえず全ての観客を無視し、志之助と向き合った。

「まず、荼吉尼天の予言だ。今日、俺たち共通の友人から厄介ごとを持ち込まれる、それを解決せよ。さすれば、しのさんの血縁に行き当たる、だそうだ。それで、その厄介ごとだが、松安先生が持ってきているらしい」

「……らしい?」

「まだ、何を持って来られたか、伺っていない」

「そういうことか」

「そういうことだ」

 二人だけで、勝手に分かり合って、志之助はそれだけで納得してしまったらしい。何とも、二人だけの世界である。誰でも、これにはついていけまい。

 状況を納得すれば、志之助が征士郎に変わって主導権を握っていく。元々の役割分担がそうなのだ。征士郎も、志之助に引っ張ってもらえれば楽だそうで、志之助の視線がしっかり力を持つのを嬉しそうに見守っている。

「すみません、松安先生。少し厄介なことになっていたもので。ご用件を簡単に聞かせていただけますか?」

 しっかり座りなおしての問いかけに、松安もしっかりと屏風の向こうから出てきて座りなおす。

「忙しいようであれば、後回しで構わんのだが」

「いえ。私の守護仏が、解決せよとご命令ですので。大丈夫ですよ。出来ることから片付けます」

 実際、こちらの都合でいえば、出来ることから片付けるしかない状況なのだ。遠慮してもらえるのは嬉しいが、そんな場合ではない。

「なら、頼みたい。友人を連れてきているのだが、その許婚のことでちょっと困っている。なんでも、狐憑きだそうだ」

「狐憑き、ですか……」

 それはまた、何とも絶好のタイミングだ。志之助たちが抱えているのも狐の問題。つながりとしては、丁度良い。

「詳しく聞かせてください。ちょっと待っていただけますか? 加助さん。ちょっと早いですけど店仕舞いしましょう。せいさん、手伝って」

 松安から了解の頷きを得る前に、志之助はそそくさと立ち上がり、のれんを片付けに表に出る。丁度夕暮れ時で、これ以上は客も来ないだろうと見越してのことで、実際、日中は意外と人通りのある表の道も、今は閑散としている。

 志之助と征士郎が雨戸を閉めに出て行き、加助は住居空間と店舗空間を仕切る屏風を片付けて一日の売り上げの勘定を始める。おつねも、自分の家のように平然と土間に上がりこみ、湯を沸かし始めた。

 客人二人だけが、所在なさげにそこに座って彼らの動きを待っていた。





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