壱の4




「で、決めてきたと?」

 帰宅した勝太郎は、そう報告した征士郎に問い返した。ええ、と征士郎が答える。

 志之助はとうに引越しを済ませ、明日にでも店を出せるよう準備していた。征士郎は仕事が決まるまで志之助の店を手伝うという。志之助は幼いころは芸妓の置屋で働いていたり舞妓の見習などしていたため、客商売には慣れている。その経験を生かして店をやっていくつもりであるらしい。征士郎も、用心棒か寺子屋かで募集がないか捜し歩くことにしていた。

「では、もう帰ってこぬのか?」

「おや、お寂しいのですか、兄上」

 情けない声で言う兄に征士郎は少しからかうようにそう言った。馬鹿を申すでない、と強がってみせ、また勝太郎は肩を落とす。

「昨日帰ってきたばかりではないか。しばらくここにおってもよかろうものを。それで、家賃は持ち合わせがあったのか?」

「はい。俺もしのさんも倹約派なので、十分に。何にせよ、ここと明神下では歩いていくらもなりませぬ。そんなに淋しがらずとも、三日と空けずにこちらに顔を出しますよ。今まで兄上にはご心配ばかりおかけいたしましたから」

 心配なさいますな、と征士郎は笑って見せた。田舎育ちのくせに征士郎がこうやってしゃべることができるのも、この勝太郎あってのもので、征士郎としても十分に感謝しているのだ。こうして江戸にいる間だけでも兄孝行をしたいというのも、当たり前の話である。

「店の方にも、ぜひいらしてください。庶民相手に日用雑貨の店を開いているだけですが、それだけに店番もかなり暇をもてあましているはずですから」

 お待ちいたしております、と頭を下げて、征士郎は志之助の手伝いをしなければならないからと帰っていった。

 見送った勝太郎は、やはり寂しげに溜息をついた。そういえば、弟たちがいない間に昇進していたことも言っていないことに、今更ながらに気がつく勝太郎であった。




 店を開けるまでには色々準備しなければならないはずなのだが、この小間物屋、住人が決まった次の日からもう開いていた。

 つい数日前まで開いていた店であることと、次に入った住人が妙に手際が良かったせいだろう。そして、開けたその日から客足が良いのも、前の店主の評判と主人の人柄と店の雰囲気のせいだった。

 店を開けたその日、志之助は長兵衛がやりかけのまま残していた蝋燭の絵付けを継ぎながら、店番をしていた。長旅でぼろぼろの着物の裾は昨夜のうちに縫い直していたし、家財道具一式丸々残されていたので、すぐに商売を始めるのに何の支障もなかったのだ。前掛けも長兵衛が掛けていたものを拝借している。

 日が昇って道に人通りが多くなってきた頃、この小間物屋が開いているのを見て、一人の中年の女が店に入ってきた。

「おやまあ。さっそく新しい人が入ったんだねえ。長兵衛さんの初七日も終えてないってのに、早いもんだ」

 そんな嫌味を言った舌の根も乾かないうちに、志之助の顔を見てうっとりと溜息を漏らす。

「今度の小間物屋さんは、また、美人だねえ。あんた、男かい?」

「ええ、男ですよ。志之助と申します。これからもどうぞご贔屓に」

 志之助ににっこりと微笑まれて見惚れない女はいないだろう。ちなみに、本当に男か?と疑わない男もあまりいない。化粧もなしに、歌舞伎で女形が張れてしまうようなその美貌は伊達ではない。不精髭を落とした征士郎と並んだら、その背丈から見ても、夫婦といっても信用されそうなほどだ。

 蝋燭に筆を走らせていた手を休めて、志之助は客の応対のために身の回りを片付けた。色粉の入った皿をどけると、そこに女が腰を下ろす。

「あんた、このあたりじゃ見ない顔だね。どこから来なすった?」

「京です。おかみさんは、生れも育ちも江戸でしょう?」

「おや、わかるかい?」

「いえ、ただそんな気がしただけで。今日は、何を差し上げましょう? お客様一号ですから、特別まけておきますよ」

 まけるもなにも、元手がかかっていない。だから別に、志之助の懐は痛まないというわけだ。が、この女にそれを明かす必要もない。

「あ、じゃあ、ちり紙と蝋燭と線香、一束ずつもらおうかね」

「はい。ありがとうございます」

 すてすてと棚に歩いていって、言われたものを一束ずつ取って戻ってくる。値段は前からついていたものと同じ分だけ。まけると言った手前、二割引いて請求した。悪いねえ、と言いながらも女が銭を払って品物を受け取る。

「一つ聞いていいかい?」

「はい、何でしょう?」

「どうして髷を結わないんだい?」

「髷結って、似合うと思います?」

 志之助の返事に一瞬つまって、女は豪快に笑った。その返事、どうやら気に入ったらしい。

「いいね、それ。じゃ、また来るよ」

「ありがとうございました」

 女が店を出ていくのを見送って、志之助はまた蝋燭の絵付けに取りかかった。それが妙にうまいのは、志之助が僧侶だったからである。修業中とはいえ、というかだからこそ、こんなものは手慣れていたりするのだった。

 その日の午後から、先程の女が知り合いに話したらしく、客足が急に増えた。ここ数日買物ができなかったその分と、半分は新しい主人の顔を見に。まだ開店して初日では、新しい主人はほとんど見世物小屋の商品なのである。

 それが、三日もすると、客層も安定し、足もめっきり少なくなる。そうなると、話上手の聞き上手である志之助のこと、お客は長屋の女たちがほとんどであるこんな小間物屋では、噂話がどんどん耳に入ってくるようになる。

 まずはお節介な女がこの長屋に住んでいる人々のことをあることないこと洗いざらい教えていき、どこそこの男とどこそこの女が恋仲であるとか、どこそこで昨日夫婦喧嘩していただとか、どこそこの旦那が怪我をしただとか病気になっただとか、とにかく何でもかんでも耳に入ってくるのだ。たまにはこの近辺に店を構える大店の噂も耳に入ってくるし、どこぞの武家がこの界隈でちょっとした顔だとか、明神下という土地柄神田明神の話とか、少し離れたところでは湯島天神の話とか、とにかく噂になることなら何でも、別に知りたくなくても向こうからやってきた。

 その中に、近所にある寺の住職が、寺子屋の先生を捜しているというものがあり、征士郎がそれを頼りにいったところ、今では本当に先生に納まっている。噂には根も葉もないものも多いが、本当のものも交じっていたりするのだ。





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