壱の3




 少し雲がかぶった月が、片瀬診療所の狭い庭を照らしている。

「で?」

「あぁ。実はな……」

 酒の力か、意気込みのせいか。雪輔の声に力がこもる。聞き手に回った松安は、そんな雪輔の態度に何を思ったか、少し姿勢を改めた。

 雪輔が持ってきた話は、どうやら結婚の話であるらしい。独身の男に相談する内容ではないと思うのだが、とりあえず松安はそこを指摘することはせず、おとなしく話の終わりを待った。

 ちなみに、話している雪輔としては、その間、相槌を打つのみで何の反応もない松安に、少し不気味さを感じている。何といっても、相手は片瀬松安だ。その毒舌ぶりは、親しい間柄には容赦なく、それが小気味良くもあるので、何の反応もないのがいっそう気味が悪いのだ。

「といったわけで、この歳になってもいまだに婚儀をあげることが出来ないのだ」

「ふぅん」

 最後まで、松安は相槌で締めた。早速、毒舌の嵐が吹き荒れるかと身構えていた雪輔には、拍子抜けする反応だ。

 しばらく待っても、一向に松安からの反応がないので、もしや聞いていなかったかと疑わしくなってくる。

「なぁ、松安よ。聞いてるか?」

「おぅ。聞いているともよ。何だよ、逃げ腰になって。俺とお前の仲だ。とって食ったりはしねぇよ」

 それはそれで恐いことをさらりと言ってのけ、松安は腕を組むと、ことのほか真面目な表情で考え込んだ。

「つまり、お前の許婚殿が、狐憑きかも知れん、とそういうわけだろ?」

 そういうわけだ。

 雪輔の話をまとめると、こういうことになる。

 雪輔には、幼い頃から決められた許婚がいた。三歳年下で、今は二十一歳。娘が十八の時に、婚儀を挙げることが定められていたのだが、十七歳を越えた頃から娘に奇行が目立つようになった。

 家に出た鼠を追い掛け回してしまったり、外で犬が鳴くと一緒に奇声を上げたり、しきりに手の甲で顔を撫で回していたり、わずかな音にも敏感になったり。そういったことだ。

 さすがにこれはおかしい、ということで、菩提寺の住職に相談し、何度か祈祷してもらったりもしたのだが、一向に良くなる気配はなく、こうして婚儀も延びに延び、今に至っている。

「で、それを今になって俺に相談に来たのには、何のわけがあるのだ?」

「うん。実は先日、許婚と食事を共にする機会があってな、良い機会なので、本人に聞いてみたのだ。そうしたら、お寺の祈祷では特に何の反応もないのだそうなのだ。それは、効いていないという事だろう? それでは、いつまで経っても夫婦になれん。それで、思い出したのだ。先日、おぬし、吸血鬼なる人ならざるものを捕まえたではないか。何か妙案がないかと思って」

 なるほど、それで今の時期に相談に来たのか、と松安はやけに得心がいっていた。四年も手をこまねいていて、今になって人に相談するのもおかしいと思ったのだが、そういう事情があったのだ。

「では、許婚殿も、お前と結婚することを嫌がって、奇行を演じているわけではないのだな?」

「早う、俺の嫁に来たい、と言ってくれた。俺も、おせんを嫁にもらってやりたいのだ」

「おせんさんというのか。俺も会ってみたいな」

 ふむ。そう、また短く唸って、腕を組み、首を傾げる。それから、おもむろに腕を解くと、胡坐の膝をぽんと叩いた。

「よし。その道の玄人に相談してみよう」

「だから、寺の祈祷は効いておらん、と……」

「寺ではない。陰陽師だ」

 陰陽師? 胡散臭そうに眉をひそめ、雪輔が聞き返してくる。寺の坊主は信じても、陰陽師は信じていない、そんな矛盾に松安は可笑しくなって、ぷっと吹き出す。

「何だよ、その顔は。寺の祈祷が効かないんだろう? といって、何もしないわけにはいかないのだから、次は陰陽師に頼るのが順当ではないか」

「だが、お寺さんは、陰陽師なぞ信用しておらんぞ」

「反対もあり得る。まぁ、相談するだけはただだ。話をしてみようじゃないか」

「京の都まで行くのか?」

「ボケ。んなわきゃなかろう。お前、その吸血鬼を捕まえたのが、俺だと思っているのか? そんな、わけのわからんやつを捕まえる技量は、いかな俺でもありゃせんよ」

 それは、少し前に江戸を騒がせた人の生き血を吸って仲間を増やすという人に似た化け物の捕物劇のことだ。どうやら、その場に居合わせていなかった同心与力たちには、解決したのは松安であると伝わっているらしい。これは、父によく言い含めておかなければ、と改めて思う松安である。

「信用できるのか?」

「俺よりはよっぽど。お前、覚えておらんか? この近くの立花道場で首席を務めた、中村征士郎という男。あやつの相棒殿でな。この日の本で、最も力のある陰陽師だ、とあやつが自慢しておった。人ならざるものが相手ならば、彼の右に出る能力者はいない、とさ。それに、その陰陽師、上様のお墨付きだ」

「上様のっ!?」

 それは、さすがに驚いて、雪輔は素っ頓狂な声を上げた。その驚きように、松安は腹を抱えて笑い出す。

「そうだ、そうだ。上様の、な。だから、信用しろよ。明日の夕刻など、どうだ?」

「場所は?」

「神田明神下」

「遠いな」

「ここから行くよりは、八丁堀の方が近かろう? 直接行けば良い。明神様で待ち合わせよう」

「うむ。心得た」

 頷いて、ようやく膝元の猪口を取り上げる。松安は、いつの間にか飲み干していたそれに、手酌で酒を注ぐと、月に向かってそれを掲げた。

「今宵は良い月だ」

「まことに、な」

 その月は、いつの間にやら、頂点近くまで昇っていた。

 綺麗な円形を見せる月の中央で、うさぎが相変わらず、餅つきに精を出している。





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