壱の2
所変わって、赤坂である。
剣術道場ひしめく界隈に門を構える片瀬診療所の夜は、いつも静まり返っている。何と言っても、男の一人暮らしでは、騒がしくなりようがない。日中、患者たちや恋人などに囲まれて賑やかに過ごしているだけに、余計に心寂しく感じられた。
こんな寂しい雰囲気にも、とうに慣れたらしい。
診療所を一人で切り盛りする医師、片瀬松安は、寂しさを感じるでもなく、一人縁側へ出て、月見酒と洒落込んでいた。
どこかで、訪問者の声が聞こえる。この夜中に、客であるらしい。忙しいことだ、と他人事のように、松安は御猪口を口に運ぶ。
『たのもーう。松安、いないのかぁ?』
「俺か」
どこか、隣近所から聞こえる声だと、勝手に思い込んでいた。そもそも、患者を除けば客の少ない町医者である。玄関からの声など、聞き慣れていないのだから無理もない。
仕方がなく、手に持った猪口を置き、立ち上がる。
さして広くもない家だ。少し歩けば玄関まではすぐに着く。
「……何だ。雪輔か」
客の顔を見た途端の、第一声がこれであった。無愛想なのはいつものことで、客の方も、顔色を見る限りでは、気に障った様子もない。ただ、軽く苦笑するのみだ。
「何だ、ではない。確かに俺だが、客は客。少しはもてなせ」
「面倒だ。知らない家でもあるまいし、勝手に入って来いよ」
「物騒だな」
「盗られるもんもねぇよ、うちのような貧乏町医者には」
つまり、古い顔馴染みであるらしい。招き入れることすら面倒臭そうに、松安は先に戻っていく。客人は、そこに雪駄を脱ぐと、後を追いかけた。
客人。名を甲斐雪輔という。片瀬家の養子である松安は、出自は南町奉行高遠善隆の三男で、町方の同心与力に知り合いも多い。雪輔も、南町奉行所に所属する同心の一人だ。
この松安。町医者でありながら、実父に無条件で頼られるほどの推理力の持ち主であり、今までで解決した難事件は数知れない。雪輔とも、事件の捜査過程で知り合った仲で、仲間内の中でも特に仲の良い間柄であった。
台所へ寄って、戸棚から猪口をもう一つ取り、縁側へ戻る。
「何だ。呑んでいたのか」
「月が綺麗でな。で、手ぶらか?」
「悪かったな、気が利かなくて」
まったくだ、と頷き、隣に円座を敷いて座るよう促した。新しい猪口にも酒を注ぐ。
「で? 何の問題事だ?」
何のためらいもなく、問題事と断言をして、話を促す。まずは、その断言に抗議しようと口を開いた雪輔だったが、すぐに諦め、肩を落とす。
「何故、問題事だと?」
「お前が、そんな顔で、土産も持たずに尋ねてくるんだから、何か切羽詰っているに違いない。そうでないなら、酒の一瓶、つまみの一つも持参するものだ」
「だから、悪かったよ、気が利かなくて」
いつまでも根に持つなよ、と雪輔がぶすくれると、松安がようやく笑った。
「まぁ、呑めよ。仕事か?」
「いや、個人的に。もらおう」
うむ、と松安も頷き、自分の猪口に口をつける。
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