壱の1




 江戸には、八百八町もの町があるらしい。

 正確に数えて八百八あるのかどうかは知らないが、そのうちの一つに、明神下なる町人町がある。平将門を祀る、神田明神の門前町だ。

 明神様は高台に置かれているが、そのふもと、昌平坂学問所の裏手に当たる下町の通り端に、その小間物屋は店を構えていた。

 まだ新しいのれんが、差し込む夕日を眩しさのみ遮って、店内をほの赤く照らしている。

 店内には、店の主人である結び髪の美青年と、どうやら暇つぶしに店を手伝っているらしい、細身の熊のような無精ひげ面にざんばら髪の浪人、それに、うら若い美貌の女性が、世間話に興じていた。

 日が沈めば、店仕舞いの時刻である。常連客は近所の主婦が中心で、今頃はそれぞれの家で夕餉の準備に追われているはずであるから、店も暇なのだ。

 その小間物屋。屋号を中村屋といった。

 店主の名は、中村屋志之助。着流し姿に前掛けをかけて、今では立派に商売人に見えるのだが、つい二年前までは行脚僧として諸国を旅していた修行僧であった。

 彼の相棒として、というよりは、生涯の伴侶として常連客や近所の大部分の人々に知られている同居人は、名を中村征士郎といい、見ての通りの浪人者である。旗本中村家の妾腹の三男坊で、こう見えて赤坂のとある剣術道場で免許皆伝を受けた腕前の持ち主だ。屋号の中村屋の由来でもある。

 女性は、名をおつねといい、この界隈で少しは名の知れた、流しの髪結い女である。さらにいえば、近い将来の征士郎の兄嫁でもあった。征士郎の兄、勝太郎の嫁として、このほどプロポーズを受けたばかりの、婚約者だ。問題は、勝太郎とおつねの身分差であるが、勝太郎が最初の妻を病で亡くしていることによる再婚ということもあり、意外とすんなり収まりそうな段取りであるらしい。

 さて、そんな三人の現在の関心事はというと。

「ちょいと聞いてくださいよ、志之助さん」

「はいはい、聞きますよ。なんです? おつねさん」

「相生町の近江屋さんのご隠居の話なんですけどね。なんでも、近頃そこの川に河童が出るそうなんですよ」

「そこの川にって、そこの神田川にですか?」

「そうそう。鯉とか鯰とかならわかりますけど、河童って、ねぇ?」

「神田川にねぇ」

 どうも、色気も何もありゃしない、摩訶不思議な噂話であった。

 この時代、夜は真の闇に包まれるせいか、妖怪変化の目撃談も後を絶たない。河童やらのっぺらぼうやらろくろ首やらの話は、日常茶飯事であって、へぇ、俺も見たいもんだね、で済んでしまう世の中であった。

 それは、彼らの間でも同じである。

 大江戸妖怪屋本舗、などと影の屋号を付けられているこの店の住人は、その名に恥じない実力と実績を兼ね備えた本格派なのだが、だからといって、そんな日常の目撃談にいちいち反応していられないのだ。それ以前に、河童だののっぺらぼうだのろくろ首だのは、実害がないのだから、放っておいて構わないのである。

 したがって、この店内でも、そんな話に対する反応は、へぇ、の一言だった。

「神田川に河童ねぇ。まだ聞いてないなぁ。ねぇ、せいさん」

「そうだな、どこの道場でもまだ耳にしていないぞ」

 どこの、も何も、雇われ師範として通い始めた剣術道場は、まだ二軒のみである。しかも、五日に一日だけの少ない日数では、まだ通った数も数えるほどで、そこまでの噂話を仕入れてくるまでに至っていないのが現状だ。

 あらそうですか、と、話を切り出した張本人もいたってのん気に返した。

「まぁ、あそこのご隠居さんも、そろそろボケが出始めてるって聞いてますしね。大方ホラかも知れませんよ」

「ボケ、ですか。じゃあ、結構長生きでいらっしゃる?」

「もう、喜寿を越したとか」

「ほう。それは、御達者でなにより」

 この時代、なにしろ平均寿命が五十代であるから、ボケるほど長生きすると、それだけ尊敬の対象とされていた。老化によるボケの症状は、それだけ年輪を重ねた証拠であって、寿いでしかるべきなのだ。

 さて、そんな平和な会話をしている間にも、初夏の長い日もそろそろ落ち始め、空に夕闇が差し迫り始める。さ、と声をかけて、志之助は座っていた縁台から立ち上がった。

「店仕舞いしましょうね。せいさん、手伝って」

「うむ」

 短く答えて、征士郎がのっそりと立ち上がる。ならば、と反対におつねは店先から縁台に上がり、台所へ入っていった。

 勝太郎の求婚を受けてからというもの、すでに家族である意識があるのか、毎日彼女は店仕舞い時刻辺りにやってきて、夕餉の支度をしてくれる。それを目当てに、勝太郎も二日に一日は顔を見せるので、自然と毎日の風景として受け入れられていた。

 問題は、中村家としてせっかく構えている家屋敷に人がいなくなることが多いということだが、特に取られるモノもないから構わん、とは当主である勝太郎の談である。

 まずはのれんを下ろし、はめ込みの雨戸を二人で協力してはめている所へ、突き当りの大家の店先を通り過ぎて、老いた男が姿を見せた。

「おや、加助さん。こんばんは」

「こんばんは。今夜はご主人様もこちらに直接来られるってぇんで、ご馳走になりに来ましたよ」

「そうか。兄上も今日は来られるか。それは、朝からの予定か?」

「へぇ。朝お出かけになるときに言い置かれておいででしたんで」

 お手伝いしましょうか?と、腰低く申し出るのは、中村家に仕える家人としての責任と、ことあるごとに手伝いに来ている分、身内の感覚でいるせいなのだろう。残る雨戸は一枚きりなので、それを持ち上げながら、志之助は微笑を浮かべつつ首を振った。

「大丈夫ですよ。中へどうぞ。台所でおつねさんが夕餉の支度をしてますから」

「そんじゃあ、奥方様のお手伝いに参りましょうかね」

 中村家に仕える前まではこの長屋に住んでいた加助である。気心も知れた間柄のおつねに対して、加助はそんな風にからかう声を上げると、部屋の奥へと入っていった。

 加助は、この並びの長屋に住んでいた頃は、病がちな娘との二人暮しをしていたらしい。ちょうど、おつねとも同じくらいの年頃なのだが、滅多に外へ出ない娘と新参者で娘の一人暮らしをするおつねでは接点がなかったようで、同じ長屋の者として日々の挨拶を交わす程度の仲でしかなかった。おつねと加助が冗談まで言い合える仲になったのは、つい最近のことなのだ。

 それは、妖異退治に出かける志之助が二人に店の留守を頼んでいるせいなのだろう。加助に店番を、おつねに夕方以降の留守番をお願いするので、二人が仲良くなるのも自然なことである。

 おつねが中村家の嫁に入ると決まった時、一番喜んだのは加助であった。自分の仕事が少しは減るだろう、などという期待ではなく、純粋におつねを自分の娘に重ねてみていた、父親としての感情であった。娘の幸せな結婚を喜ばない親はいないのだ。まして、加助の娘は嫁入りする前に病で死の床についてしまったのだから。

 ちょうど夕食の支度が整った頃、裏口を叩く音がした。誰何の声も上げずにつっかえ棒をはずして裏口を開けるのは、それが征士郎の兄、勝太郎であるという確信があるからだ。それは、勝太郎の戸の叩き方に特徴があるのが理由だった。コンコン、コンコン。軽く二回叩く音が、連続して二回聞こえる。特に取り決めたわけではないが、いつものことなので、確認する必要もないわけだ。

 案の定、外から顔を覗かせたのは勝太郎であった。

 円陣を組んで全員集まっているのを確認し、勝太郎は満足そうに微笑むと、自分もこの一員だと主張するように、空いている場所に腰を下ろす。

 今夜の食事は、柳川鍋である。鍋をかけるために一年中出しっぱなしにしている、こんな長屋には似合わない大きな火鉢に鉄鍋を掛け、開いたどじょうと太いうどんが中で踊っている。火鉢を中心にして全員がそれを囲むと、板の間にはそれ以上には足の踏み場がなくなってしまう。

 鍋の中を覗き込んだ志之助は、その中身に首を傾げる。

「……なんでまた、うどんで柳川?」

「だって、おいしそうだったんですもの」

 食べるだけの人間はわがままを言うな、と視線で抗議をして、それと同時に、おつねがうふふっとかわいらしく笑う。思わず突っ込んでしまった志之助は、そんな視線と行動の噛み合わなさに、肩をすくめて笑うしかなかった。

 さて、どうにも違和感は感じるものの、それなりに美味しい柳川鍋を突付きながら、食事の席はそのままその日一日の報告会を兼ねる。

 おつねが、勝太郎と加助はまだ耳にしていない、相生町の近江屋のご隠居が言う河童の噂を、多少脚色を交えて語ると、ふんふんと興味深そうに聞いていた勝太郎が、突然、ぽん、と手を叩いた。

「そうだ、そうだ。志之助殿。上様よりお呼び出しだ。何でも、多摩丘陵で狐の祟りだとか」

「……はい? 狐の祟り?」

 狐って、この狐?とばかりに、自分のこめかみ辺りにそれぞれ手を寄せて、くの字に曲げ、狐の耳の真似をする。勝太郎もまた、同じような仕草をして見せ、頷いた。

「そう。狐の祟り」

 その仕草は、志之助がやれば可愛いが、弟に似て痩せた熊を想像させる体格の勝太郎がやって見せても、あまり絵にならない。嫌そうに眉を寄せて、征士郎が軽く咳払いをした。自分でもわかっているらしく、勝太郎はさっさと両手を下ろす。

 志之助の方は、狐ねぇ、と呟きながら、手招きをするように、こめかみに寄せた両手をパタパタと振った。

「狐が化かすっていうなら、あることですけど。祟りなんて、あるかなぁ?」

「何でも、土地の稲荷の神域だそうだ。稲荷神の祟りではないのか?」

「まぁ、それなら、なくはないでしょうけど。うーん、どうでしょう」

 どうにも、腑に落ちないらしい。めずらしく、妖異現象で歯切れの悪い回答をする志之助に、勝太郎は弟と顔を見合わせ、同時に志之助の顔を覗き込んだ。

「引っかかるのか? しのさん」

「うーん。狐が祟り、ねぇ。しかも、多摩。難しいと思うんだけどなぁ」

 難しい?と、集まった全員が首を傾げた。

 そもそも、狐といえば、神様として祭られるほどの神聖な動物として知られている。一方で、狸と並んで、変身して人間を化かす、妖怪のようなイメージも併せ持った生き物だ。もちろん、この二つは表裏一体で、どちらも欠かせない要素だが。

 そんな生き物が相手であるから、志之助の断言が意外だった。

「何故、難しい?」

「だって、多摩丘陵でしょう? そもそも、関八州は将門様と北条一門のお膝元だからね、そうそう、妖異の好き勝手には出来ないはずなんだよ」

 今まで志之助が扱ってきた妖怪変化の事件の数々は、そういえば、その裏に人の思惑が絡んでいることが多く、純粋に妖怪や神の祟りであった例がない。言われてみれば、なるほど、納得がいく。

「つまり、今度も何か裏があると?」

「状況すらまだ聞いていないから、何とも言えないけれど。先に、将門様にお伺いを立ててから行こうか」

「うむ。それが良かろう」

 志之助が提示する方針に、征士郎が当然のように頷いて返す。いつもながら以心伝心なやり取りに、すっかり慣らされた勝太郎は、満足げに目を細めて頷いた。

「そいじゃ、また明日から店番のお手伝いに参りましょうかね」

 行動方針が決まったらしいと見て取った加助が、ずっと閉じていた口を開く。それは、まだ志之助からのお願いも、勝太郎からの命令もないうちの申し出で、志之助は相棒と顔を見合わせ、その兄に確認のための視線を向ける。勝太郎が頷くので、志之助は頭を下げた。

「毎度毎度、ご面倒をおかけします。よろしくお願いします」

「面倒なもんですかい。あっしも楽しませてもらってますから、お気になさらず」

 当然のことのように答えて、加助はそ知らぬ顔で食後の白湯をすする。その態度は、仲間はずれを拗ねたように感じられて、志之助はようやく、嬉しそうに目を細めて笑った。





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