狐の嫁入り 序




 時は寛政年間。

 その日。時の将軍、徳川家斉は、老中松平定信をお供に、白毛の愛馬の背に揺られ、武蔵国は多摩丘陵にやってきていた。

 時代はまさに、一大倹約令の真っ只中。にもかかわらず、彼らの目的地は幕府指定の鷹狩場だった。

 どうやら、将軍自らの意思には反しているらしい。馬上の将軍は、これから遊びに出かける人間には不似合いなほど、不機嫌そのものの表情をしている。

 静々と進む一行は、農村の近くを通り抜けるたびに、農作業中の民に平伏で見送られていた。それがまた、将軍の不機嫌のもとであるらしい。民に対する不満ではなく、こんな時期外れな企画を催した主催者に対する不満が露出しているのだ。

 対して、将軍を先導する、主催者に当たるどこぞの大名は、意気揚々と馬を進めていた。振り返らない限り、将軍の不機嫌には気付きようもないし、振り返ることは失礼に当たるのだから、仕方のないことではあろう。

 やがて、多摩丘陵のふもとの村に、一行は差し掛かった。

 突然、将軍の乗る白馬の足元に、三人の男が転がり込むように駆け寄ってきた。

「殿様」

「お殿様。お待ちくだせぇませ」

「この先にゃあ、行っちゃあなんねぇですだ」

 わらわらと集まってきた、見るからに貧相な姿をした三人の男に止められて、将軍は不機嫌な表情をすっと引っ込め、馬の歩みを止めた。将軍が右手を高く上げると、彼より後ろに付き従っていた隊列が、順に足を止める。

 将軍の斜め後ろに従っていた松平は、慌てて駆け寄ってくると、持っていた鞭を農夫たちに向かって振り回した。

「無礼者。去れ、去れ。このお方をどなたと心得る」

「良い、松平。下がっておれ」

 臣下としては当然の行動をした松平を、将軍は片手を挙げて制し、あとずさる農夫たちを呼び止める。それは、通常考えられない破格の行いだ。

「そちども。苦しゅうない、近う寄れ。何ゆえ、この先の道行きを止めるか、話して聞かせよ」

 ひょいひょい、と手招きまでして、将軍はさすがに乗馬のまま、三人の農夫に直接声をかけた。将軍がそう言うので、仕方なく松平は後に下がる。

 呼び寄せられた農夫たちは、またもや、わらわらと馬の足元へ寄ってくると、真剣な表情で、どこかのお殿様らしいお侍様に訴える。

「へぇ。実ぁ、この先の多摩のお山で、近頃、狐がわんさと死んでるんでさぁ」

「この辺りは御狐様の御神域だもんで、御狐様の祟りじゃあねぇかと、里の衆も恐がって近寄らねぇ」

「お殿様方ぁ、鷹狩ですじゃろ? 止めたがえぇ。祟りがくだりますで」

 農夫たちが口々に言うには、こういうことであった。

 確かに、多摩丘陵の一角はこの辺りでは比較的大きな稲荷神社の神域になっている。加えて、その一帯は幕府指定の鷹狩場であるから、無許可で猟を行うことは禁じられているし、もし狐を狩る熊などの仕業であれば、死骸をそのまま残しておくはずはない。

 したがって、この付近で狐の大量死は、確かに不吉なのだ。

 農夫たちが伝えた現状に、将軍は腕を組んだ。

「ほう。祟り、のぅ……」

 そんな呟きを残して考え込む将軍に、控えている松平は嫌な予感に苛まれつつ、固唾を呑んで主君の反応を待った。

 ある事件をきっかけに、身分違いの友人を得た将軍は、それ以来、不思議なことには何でも興味を持つようになってしまっていた。したがって、自ら進んで首を突っ込もうとする可能性が十分に考えられるのだ。老中としては、勘弁して欲しいところなのだが。

 やがて、将軍がついて来ないことに気がついたこの計画を立てた大名が、少し先から戻ってくる。馬の足元に集まった三人の農夫は、黙ってしまった将軍を見上げて、それぞれが顔を見合わせている。

 それから、ようやく将軍は、組んだ腕を解き、彼らを見下ろした。

「良く教えてくれた。礼を申す」

 そして、松平を振り返った。

「この者たちに、謝礼を。城に戻るぞ」

「引き返すのでございますか?」

「うむ。余は、狐の祟りをわかっていて自らかぶる趣味はない。そうとわかれば、万全の体制で臨まねばならぬ。我が鷹狩場の大事なれば、放っておくわけにもいかぬゆえ、体勢を立て直して出直すことと致そう」

 それは、ただ祟りを恐れただけではなく、どうやら本気で興味を持ってしまったらしい。とりあえずこの場を納められたことに喜んでいいのか、今後の展望を悲しんだら良いのか、判断が出来ず、松平は頭を痛めた。

 一行は、隊列を正反対に向けて、再び静々と歩み始めた。

 ずらりと長い隊列の過ぎ去った後には、小判数枚ずつを押し頂いて平伏する三人の農夫たちの姿が残されていた。





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