壱の3




 次の日、勝太郎が出勤していくのを見送って、志之助と征士郎は例の小間物屋を見に行くことにした。

 このあたり、大名や旗本屋敷が立ち並ぶ錦町からいくらか歩いた、神田明神下の伝兵衛長屋がそれである。木戸のすぐ近くに、小間物屋はあった。以前ここで小間物屋をしていた長兵衛は、木戸番も兼ねていたらしい。

 二階長屋が一棟と、それを挟んで両側に平長屋が一棟ずつ。この三棟が伝兵衛長屋と呼ばれるそれである。この土地の持ち主で長屋の大家である松駒屋の先代が伝兵衛という名であったところからついた名だ。

 この長屋、建ててから五十年近くなるというのに、ガタ一つ見当たらない。よほど腕の良い大工の仕事だったのだろう。この建物を見上げてしばらくぼんやりしていた志之助が、やがてにっこりと笑った。

「気に入った」

「ほう、そんなに良いもんだったかい」

 いったい何をしていたんだろう、と加助が首を傾げる。征士郎は志之助が気に入ったと言ったことですっかり信用したらしく、満足げに腰に手を当てて頷いた。

「ここ、場所が良いよ。商売繁盛したでしょう」

「そうですね、こんな場所にしては客の入りが良かったような」

 だろうね、と志之助が頷く。

「ここ、もう他に引き取り手が出てないと良いんだけれど」

 閉められた雨戸には、入居者募集の張り紙がある。が、剥がし忘れということもあるし、この場所が空家になって幾日か経っている。もう決まっていたとしても不思議はない。

「行ってみますか。松駒屋さんに」

 こちらです、と加助が先に立って歩き出した。すぐ後に続いた征士郎を慌てて追いかけて、志之助はその長屋の屋根の上に軽く手を振った。何か長屋を守るものが屋根の上にいるらしい。

 松駒屋は、木戸を出て左手に歩いていった突き当たりに店を構えている呉服問屋である。品物が良いらしく、庶民の多いこの界隈ではかなりはやっている店だった。仕立ての請負もしているようである。

 店の前の大きなのれんを掻き分けて中を覗くと、外から見て想像した以上の賑わいであった。彼らが入ってきたのに気づいて、手の空いていた番頭が声をかける。

「お着物のお仕立てですか?」

「あ、いや、そこの長屋の主はこちらか?」

 任せた、も何もなく志之助はその店内を物珍しそうに見回している。加助は店の外で待っていた。番頭が、長屋?と首を傾げる。

「そこで募集の張り紙を見てきた。ここで良いのか?」

「へえ。主人をお呼びいたします。少々お待ちください」

 すっくと立ち上がるその仕草はさすが商売人。長年の経験がなせる技なのであろう。見ていて安心できる物腰である。

 やがて、番頭と一緒にこの番頭よりも少しばかり若い主人が出てきた。そのあたりで商談をしている客にいちいち挨拶をしていく姿は、商売人の鑑であろう。商売で身を立てていこうとするなら見習うべきである。

「松駒屋伝吉と申します。こんなところではなんですので、奥へどうぞ」

「かたじけない。……しのさん、行くぞ」

「あ、ちょっと待って」

 ぼんやりと品物の反物を見ていた志之助が、相棒に置いて行かれたことを知って慌てて追いかけていった。

 通されたのは、どうやら奥の客間らしい。女将らしい主人と同年代の女性が、薄茶を持ってきた。主人は何やら契約書らしい紙を引っ張り出している。

「申し出ていただいて良かった。こちらとしても、二階屋を遊ばせておくのは少々都合が悪うございましてね。難儀していたところなのでございますよ。ご契約ということでよろしゅうございますか?」

「あそこ、小間物屋だったとお聞きしましたが、品物は残ってますか?」

 その前に、というように答えたのは、今まで黙っていた志之助だった。松駒屋はあっさりと頷く。

「お続けになるのでしたら以前から取引のあった問屋さんもご紹介いたしますよ。家賃は、一月につき一分二朱。二階屋ですから、このくらいが相場と聞いております。いかがなさいますか?」

「しのさん、気に入ったんだろう?」

「まあ、なんたって白蛇の神様がいる家なんて滅多にないからねえ」

 白蛇? 志之助の言葉に今度は主人が驚いた。白蛇といえば家屋敷の守り神として知られているものである。それがたかが長屋などにいるとはとても思えないし、なぜ志之助がそんなものを知っているのかも理解不能だ。志之助は何やら意味ありげに、うふふ、と笑っている。

「よろしくお願いします。契約金とか、必要ですか?」

「……いいえ、そのようなものは一切いただいていませんよ。月初めにお家賃をいただいておりますので、一分二朱、お願いいたします。まずは部屋の中を見に参りましょう」

 すっと主人が立ち上がる。この優雅な立ち方は先ほどの番頭と同じだ。先代のしつけがよほど良かったのだろう。

 どうやらその部屋を閉じていた鍵らしいものを抽斗から取り出して、主人は先に立って外へ出ていった。





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