参の7
やがて、西の空に三日月を残して、星の瞬く夜闇が訪れる。
志之助は、そこに緊張した面持ちで立っているおみつを振り返った。
「もし、万が一失敗してしまったら、殺してくださいね」
そんな恐いお願いをして、志之助はにこっと笑いかけると、征士郎の肩を力づけるように叩いて、神社の境内を出て行った。
征士郎は、おみつをそばに連れて、志之助の姿が見える程度の後ろに従って、追いかけた。いつでも駆けつけられるように、だが、ここにいることを悟られないように、そんな位置だ。
ふと空を見上げると、志之助の烏天狗たちがそこに集まっていた。中でもひときわ大きな体つきの、額に傷がある天狗が、両手を大きく広げると、集まっていた彼らが手の動きにあわせて広がり、空中に円を描く。下で、ふと志之助が上を見上げ、それから、軽く微笑んだのが見えた。
少し歩いて町内をもうすぐ一周しようという頃。急に、おみつが征士郎の腕にしがみついた。身体を寄せ、周囲に意識を向けている。
征士郎は、おみつの身体を守るように抱き寄せると、そっと物陰に身を潜めた。志之助が、ぴたりと足を止める。そして、何かを感じたように、きょろきょろと回りを見回した。普段の志之助ならば、周囲を探るためにわざわざ首を振るような真似はしない。おそらくは、無防備さを装っているのだ。それから、首をかしげ、羽織の合わせを引き寄せる。
とん、と肩を叩かれて、征士郎は条件反射的に刀に手をかけつつ振り返った。すぐに相手を確認し、ほっとして刀から手を離す。それが、松安の手だったからだ。
「来たのかい?」
「おそらく、間違いないでしょう。おみつさんが感じてる」
「えぇ。すぐ近くにいます」
こそこそと話すのに、おみつもまた頷いた。そして、志之助のいる方へ意識を向ける。松安も、志之助に注目した。
「しかし、あまりに無防備ではないか?」
「囮ですから。無防備でないと襲ってもらえません。それに、いきなり危険に晒されることはないでしょう。何しろ、噛まれるのは首筋ですからね」
「あぁ。いきなり前からか後ろからか襲ってきて、簡単に傷を付けられる場所ではないな」
征士郎の言いたいことを理解して、言葉を継ぐ。少し驚いたように松安を見やって、それから、征士郎は再び志之助を見守る姿勢に戻った。驚かれてしまったことに、松安が苦笑を浮かべる。
まだ相手は目に見える場所に来ていないのを確認して、征士郎は松安に今度は身体ごと向き直る。
「そういや、おりんさんは?」
「屋根の上だ。何かあってもすぐに駆けつけられるように、だと」
答えて返して、松安は少し切なそうにため息をつく。今の状況で不謹慎な話だが、松安は松安で、おりんとの付き合いに困っているのだ。それが、そのため息をつかせた。何となくわからないでもないから、征士郎はくすりと笑ってしまう。
「何だよ」
「いえ、別に。だから、諦めて一緒になってしまえば良いのに。不安が少しは消えますよ?」
くっくっと笑う征士郎に、松安は、言いたいことがわかったらしく、ぷい、とそっぽを向く。
なにしろ、おりんの正体は、松安には少し重いのだ。男である事実が、のしかかってくる。気にしなければ気にならないような些細な問題なのだが、本人にとっては極めて重要な問題であるらしい。
つまり、松安は、おりんに守られる立場に立たされてしまうということなのだ。本来であれば、男が女を守るのが当然で、反対になるようでは、情けない。そこを、本気であればあるほど、仕方がない、で済ませられず、苦しんでいるわけだ。
「そう考えると、俺たちは男同士で良かったかもしれません。しのさんも、俺に黙って守られるほどやわじゃないですからね」
「あの体格で、か?」
「あの体格だから、ですよ。身が軽い分、忍びの真似事程度は軽くこなします。でも、そのしのさんでも、俺に守られるのが嬉しいと言ってくれます。能力と気持ちはまた別物ですよ。おりんさんだって、先生が守ってやるって言ってやったら、喜ぶと思いますけどねぇ?」
そうだろうか。そこで、松安は素直に頷けないわけだ。何しろ、両者の力の差は歴然としている。松安は、自覚はしていないのかもしれないが、おりんに劣等感を抱いているわけだ。その不要な劣等感が、征士郎から見れば可笑しくて仕方がないのだが。
「中村様。来ます」
ずっと征士郎につかまっていたおみつが、そこに口を挟んだ。途端に、征士郎の表情が険しくなる。松安もまた、志之助の方に注意を向けた。じっと息を殺して、見守る。
志之助の背後に、人の影が現れた。
それは、美しい容貌に艶かしい物腰を持つ、ヨタカだった。手ぬぐいを被り、一端を口に咥え、藁の敷布を丸めて小脇に抱えている。そうやって、身体を男に売って生活をする女のことだ。花街や大通りには、道端にひっそりと佇んで客を物色する姿を目撃されることしばしばだが、こんな誰も通らないような道には珍しい。
その女は、しゃなりしゃなりと志之助に寄って行くと、擦り寄るように身体を寄せてきた。
「ねぇ、おにいさん。あたしを買っておくれでないかい?」
そ、と片手が志之助の頬に当てられる。誘うように甘い息を吹きかけ、はんなりと微笑んで見せる。
それだけで、世の男たちはめろめろになってしまうのだろう。なるほど、首を噛まれるのも納得できる。この誘いは、よほどの強い精神を持っていないと、断れない。
志之助は、ヨタカの品定めをするように、じっと彼女を見つめ、されるがままになっていた。積極的に引き寄せもしない代わりに、拒みもしない。それを了承と受け取ったのか、彼女はさらに大胆な行動に出る。
自分の胸をはだけてその谷間を露出し、身体を摺り寄せて女の身体をアピールする。頬に当てた手を滑らせ、筋肉の筋に従って胸の方へなでおろす。その甘え方は、玄人を思わせる。身体は売らない座敷芸者ではなく、花町の身体を売る女たちのそれだ。
そして、自分の頭を相手の肩口に乗せ、首筋に唇を寄せていく。
「なるほど。それが手口だったのか」
志之助の口から出た声は、志之助らしくない、男らしい低い声だった。
途端、ぴくん、と彼女は身体を固まらせた。それから、ゆっくりと重心を自分に戻していく。が、唇はやはり首筋から離さない。そうして、とぼける。
「な、何のことだい?」
「近頃巷で噂の吸血鬼さ。あんただろう?」
あくまでも、女を見る目は冷たい。それは、まるで突き刺すような視線で、女は思わず身を硬くした。だが、捕まえた獲物を離す気もなく。
「バレちゃあ、仕方がないねっ」
がぶ。
そう、一思いに、牙を立てたはずであった。
だが、そこから響いた音は、肉を突き刺す鈍い音ではない。カン、とも、キン、ともいう鋭い音。まるで、侍の刀が刃を交わすような。
跳ね返されて、女は口を押さえてうずくまる。その隙を、志之助は見逃さなかった。反対に襲い掛かり、両の手を掴んで背中で交差させ、身動きできないように地面に押し付ける。目にも留まらない早業だった。
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