参の2
江戸は赤坂を後にして、志之助の予測どおり四半刻の空の旅を満喫した二人は、その後、芦ノ湖の湖畔に立っていた。懐かしそうに志之助がそこを見回している。
そこは、箱根神社のすぐそばだった。芦ノ湖の竜神を祀っているせいなのか、芦ノ湖に向かって参道が延びている。その、芦ノ湖の湖畔が、二人のいる場所だ。よって、背後には箱根神社の鳥居がそびえている。
ざく、と人が砂利を踏みしめる音が聞こえて、二人は甘い空気を醸し出しつつ興じていたお喋りをとめた。ゆっくり振り返る。
そこには、二年前に知り合った、老人が立っていた。この神社の神主を務める。これでいて、風魔忍軍の長老の一人だ。
箱根忍軍。それは、百年以上前になる戦国の時代に、当時の相模の国の主、北条氏に仕えた忍者集団の名である。箱根を本拠とし、それ以前はどうやら山賊であったらしい荒くれ者たちを統率し、科学技術を発達させ、北条氏五代百年を裏から支え続けた一族だ。
主家である北条氏は、豊臣秀吉の調伏に屈し、一族離散し絶えてしまったが、風魔の忍びたちは、それ以降もこの箱根でひっそりと暮らしていた。今は主家もないので、里を守り、畑を耕し、海に出て漁をし、山に分け入って猪を狩る生活をしている。
とはいえ、その忍術と科学力と団結力には手が出せず、彼らの独立国家状態を、幕府は仕方なく黙認している状態であった。箱根の関を咎めなしに越えられる唯一の存在だった。
老人は、二人のすぐそばまでやってくると、深々と頭を下げた。遅れて、二人も頭を下げ返す。
「お久しぶりでございます。ようこそお越しくださいました」
「お呼び立てして申し訳ありません。お世話になります」
二人と風魔忍軍の関係は、少し特殊だ。箱根に現れた暴れん坊の烏天狗に手を焼いていた彼らを、比叡山の命令で助けたのが縁だった。
今や、その暴れん坊たちも従順な志之助の手足になっている。頼られている分やる気が湧いているらしい。
だから、箱根では敬われる立場のはずの老人は、二人に頭を下げるのだ。何しろ、自分たちのために命を投げ打ってくれた恩人である。その彼らが自分たちを頼って来てくれたのだから、大歓迎なのだ。
「奥へどうぞ。ご案内いたします」
老人を呼んだのは、志之助でも征士郎でもない。使いに式神をやったのだ。老人に先導されて参道へ戻っていく途中で、使いにやった式神が頭を下げて迎えた。紫苑、という。志之助がそっと手を差し出すと、彼はふっと姿を消す。
通されたのは、以前も泊めてもらった旅館の一室だった。それが、風魔忍軍の中枢であることは、一般には知られていない。本当の中枢はこの旅館の敷地内にある、どう見ても物置小屋にしか見えない小さな小屋なのである。だが、そこでは客人をもてなすことが出来ず、人に会う時は旅館の一室を利用しているらしい。旅館というところは、客が来ることを前提として作られている。したがって、客のもてなしにはもってこいなのだ。
そこに、風魔の長老が勢揃いしていた。以前来たときには中央にいた最も老齢の人物は、おそらく天命を全うしたのだろう。少し寂しい気がする志之助である。
「して、此度は一体何用でいらした?」
「はい。まずは、こちらを見ていただけますか」
答えて、双方の間に少しだけ空いた空間に、直筆の絵を並べる。途端、集まった全員の視線を浴びた。食い入るように見つめていたと思ったらすぐに全員が視線をはずしたので、おそらくは見覚えたのだろう。すごい能力だと思う。
「下手な絵で申し訳ありません。実は、江戸で少し厄介な事件が起こっておりまして。下手人を占ったところ、浮かんだ手がかりがこれなのです」
それだけ言って、二人が箱根にやってきた理由がわかったらしい。年齢もさまざまな老人たちは、それぞれに顔を見合わせた。その絵の一部が、明らかにこの箱根を示していたからである。
やがて、老人の中の一人が、音高く手を叩いた。人を呼んだらしい。三つ数えた頃、答える声がする。
「小田原に新たな信仰集団が生まれたと言うておったな」
『天狗教でございますか?』
襖の向こうから答えた声に、今度は志之助と征士郎が顔を見合わせる番だった。そうだ、と老人は答えて話を続ける。
「ありったけの資料をこれへ」
『は』
襖の向こうの中年の男の声は、短く答えて、音もなく立ち去っていく。
命令を受けた男の足音が聞こえなくなるまで待って、迎えてくれた神主姿の老人は、不思議そうな顔をする二人にこくりと頷いてみせる。
「おそらくは、天狗教に関わりがあります。風景の絵は、この箱根を。いくつかの品は、天狗教の特徴を。風景から、この箱根を思い出されましたね?」
こくり、と期せず二人揃って頷くのに、彼もまた頷いて返す。そして、志之助が示した絵に手を伸ばし、風景ではない三枚を選び出す。般若の面と烏の羽と長い数珠だ。
「天狗教とは、その名の通り、天狗を信仰します。おそらくは、この箱根に現れた烏天狗たちでしょう。そういえば、あの烏天狗は志之助殿が引き取られたとか?」
聞かれて志之助が頷く。そこに、戻ってきた中年の男の声が重なった。
『お持ちいたしました』
声をかけて、襖を開ける。そして、客人の顔を見、あっと声を上げた。どうやら覚えていたらしい。見返して、志之助も少し驚く。それは、床に伏した志之助を献身的に看病してくれた男だったのだ。
ぺこり、と志之助が会釈程度に頭を下げると、彼は嬉しそうにはにかんだ表情を見せた。当時は、彼が止めるのを何とか振り切って、再び旅に出てしまったのだ。元気になって帰ってきたのが嬉しかったらしい。
聞くと、この旅館を切り盛りしている番頭なのだという。
「天狗教の資料です。お役に立てるとよろしいのですが」
そう言って、彼は持ってきた山のような資料を差し出し、後ろに下がっていく。長老が手を振るのに頷いて、畳におでこを擦り付けるように深い礼をすると、部屋を出て行った。
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