弐の10
しばらくして、店に客の姿が現れた。同じ長屋に住む主婦、おはるだ。『中村屋』常連客第一号を自称、公言してはばからない、闊達な女性である。
志之助が珍しく紙に向かって何かを書いているのに、おはるの興味がひかれたらしい。ひょい、とそれを覗き込む。その時には、征士郎もおはるに気づいて、声をかけた。
「済まぬが、今志之助は取り込み中で手が離せん。入用があれば俺が聞こう」
「あぁ、いえ。中村様のお手を煩わせることもないんですよ。……何してるんです?志之助さん」
声をかけられて恐縮してみせ、それでもやはり興味には勝てなかったらしい。訳知りらしい征士郎に尋ねて返す。その声で、志之助はおはるに気づいたらしい。手を止めて、顔を上げた。
「あ、おはるさん。いらっしゃい。ごめんなさいね、気づかなくって。何を差し上げましょう?」
「え? あ、えっと。落とし紙をいただきに来たんですけどね。何してるんです?」
用件を尋ねられて答えながらも、やっぱり気になるものは気になるのだ。直接尋ねられて、志之助はくすりと笑った。
「占いをしてみたんですよ。その結果を書き写しているところなんです。結果が出たのは良いんだけど、よくわからなくって」
「あれ、まぁ。志之助さんでもわからないことなんてあるんですねぇ」
心底びっくりしたように言われて、志之助は笑ってしまった。棚から落とし紙の束を取ってきて、代金と引き換えに渡す。目的を達しても帰ろうとしないどころか、木箱の見える位置に腰を下ろしたところを見ると、どうやらそこに居座るつもりらしい。別に隠すほどのことでもないので、志之助もそれを咎めはしなかった。
再び、絵を描き始める。
途中、いつものように引っ切り無しにやってきた客は、皆おはるとは顔見知りで、志之助の代わりにおはるが店番を務め、きちんと代金を受け取って征士郎に渡してくれていた。おかげで、志之助の作業がことのほか進んでいる。
おはるとのお喋りで志之助が面白そうなことをしていると知って、幾人かの近所の主婦が志之助の周りに集まっていた。
やがて、志之助が七枚の絵を描き終えて、そこへ広げる。途端に、集まった主婦たち全員に囲まれてしまった。興味津々の様子で全員が七枚の絵を見つめている。
やがて、一人の主婦が首を傾げた。
「それ、小田原北条のお殿様のお墓じゃないかしらねぇ?」
途端に、全員の視線が集まる。志之助や征士郎も例外ではなかった。そのたくさんの視線に、彼女は少し頬を染める。
「どうしてそう思うんです?」
志之助に尋ねられて、まだ少し考えていた彼女は、それから、志之助を見返した。
「あたしは小田原の干物屋の娘でねぇ。子供の時分に、お寺のお坊様から教えてもらったんですよ。この五つのお墓は、乱世の時代に小田原をお治めになっていた北条のお殿様のお墓だよ、って。ほら、横一線に五つ並んだお墓なんて、珍しいでしょう? だから、覚えてるんですけどね」
そうやって説明するその主婦は、道を挟んだ反対側に住んでいる、魚売りの奥方だ。それにしても、かなり遠方から嫁入りしたものだ。そう、別の主婦が突っ込むと、旦那の仕事の都合で江戸に越してきたのだ、という答えが返ってきた。つまりは、魚屋つながりの嫁入りであったらしい。
その思ってもいなかったところからのヒントに、征士郎がなるほどと納得して腕を組む。そうなると、どうも見覚えのあるような絵がそこに他にもあるのだ。
「つまり、箱根か。これは」
東海道を延々旅していたものの、北条の歴代城主の墓など素通りしてきた二人には、見覚えがあるわけのないものだった。それがわかった途端、二人はほぼ同時に、その指摘で何となく読めてきた。
他の絵の中に、箱根の風景があるのだ。
一つは、杉並木の石畳の道だ。確か、関所を入ってきたすぐ先が、こんな道だった。ほとんどが、長い年月をかけて人が踏み固めてきただけの道であるのに、この辺りだけ石畳を敷き詰めて整備されているのである。箱根の象徴と言っても過言ではない。
それから、神社の鳥居である。鳥居だけではなく、そのそばの灯篭と、すぐ下の湖が、これまた見覚えがあった。箱根神社の鳥居だった。湖に面して鳥居が立っているような場所は少なくないが、ここは湖畔に平行して参道が続くのだ。その様子が、はっきりと書き記されている。
それにもう一つ。上から覗くような、はるかに望む海岸線だ。これは、箱根の山の上から見下ろした、相模湾の海岸線と酷似していた。ちょうどその景色を見た時の二人の様子が、わけあって尋常ではなかったので、何だか印象に残ってしまっていた。この絵には描かれていないが、海岸線のはるか向こうには、江ノ島も見えるはずだ。
そうすると、残りはあと三つ。
「般若の面に烏の羽に、長い数珠?」
「わけわからないわねぇ」
すっかりこの謎解きを楽しんでしまっている主婦たちが、うーん、と悩んでくれる。この近所の主婦たちは皆、志之助やこの『中村屋』が気に入っていて、志之助が悩んでいるとなれば進んで手を貸してくれる、人情派ばかりなのだ。
悩んでくれる近所の主婦たちを、嬉しそうに見守っていた志之助が、ふと顔を上げた。挙げられた三つの手がかりを、連続して呟かれて、何かに引っかかったらしい。
「ねぇ、せいさん。おみつさんのお父上が殺されたのって、確か、一年前、って言ってなかった?」
「おう。確かに、一年ちょっと前だと言っていたな。それがどうかしたか?」
肯定を受けて、志之助が自分の顎を掴み、再び考え込む。
「もしかして、うちの烏天狗たちじゃないのかな? 烏の羽と、長い数珠」
まるで、すぐそばに集まっている主婦たちを忘れているような、呟きだった。別に秘密にする必要もないが、あまり言いふらすべきことでもないはずなのに、そこまで気が回らないらしい。
うちの、というのは、もちろん、志之助の持ち式神のことである。一つを筆頭とする、五十八匹の頼もしい烏天狗たち。それを、志之助の言葉は指していた。
この烏天狗たちと志之助が初めて出会ったのも、箱根であった。何しろ、箱根山で暴れまくって、地元の風魔忍軍がほとほと困っていたのを、志之助は当時まだ所属していた比叡山からの命令で、命をかけて助けてやったのだ。その時、成敗されて行き場をなくした烏天狗たちを引き取って、今に至っている。最初から持っていたわけではないのだ。
まるで独白のように呟いた志之助の言葉に、あぁ、なるほど、と征士郎が納得した。
烏天狗であるから、もちろんその羽は烏のそれと同じ、漆黒色をしている。それに、一つを始めとするリーダー格の天狗たちは、長い数珠を三重ほどに束ねて、首にかけているのだ。確かに、あり得る話である。
しかし、問題がある。その烏天狗たちの姿を、長い数珠の存在もわかるほど近くから確認できた人間などいたのだろうか、という点だ。烏天狗たちを式神に下したのは、今からもう二年も前である。問題の女がおみつの父を襲うまでに、一年の空白があるのだ。それと、志之助の烏天狗たちが、一体どう結びつくのか。いまいち納得がいかない。
それに、志之助の絵には、ただ烏の羽が描かれているわけではなく、どうやら桐の箱に大切に収められているらしい状態で描かれていた。数珠も、それだけではなく、三重に束ねて、飾り紐でご丁寧に結わえてあるものだった。それはつまり、その状態で存在していることを意味するはずだ。
「行ってみるか? 箱根へ」
「そうだねぇ。それが良いかもしれない」
わからないことをここで議論していても始まらない。箱根だということはあたりがついたのだ。となれば、現地へ行ってみた方が話が早い。
と、そこへ、刻を知らせる鐘が鳴る。日はすっかり傾き、西の空が真っ赤に染まっていた。道理で店の中が少し暗い。
「いやだ、もうこんな時間っ」
「大変っ。夕餉の支度をしなくちゃ」
時間を認識した主婦たちが、大慌てで店を飛び出していく。最後に残ったおはるが、同じく帰る仕草をしながら、二人を振り返った。
「役に立てたかい?」
「えぇ。ありがとうございます」
頷いて礼を言うのに、照れくさそうに笑って、おはるもまた慌てて店を出て行った。
「さ、店仕舞いしよう」
散らかした紙や筆を片付けて、志之助が立ち上がる。征士郎も、途中までやっていた括り紐の束を抱えてそこに立ち上がった。
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