壱の2
この中村勝太郎。齢三十一になる。昨年の歳初めに妻を亡くし、以来加助が来るまでずっと一人で暮らしていた。
旗本といえば国持ちに次ぐ身分で、この中村家も五千石を賜っている大きな家である。家屋敷の敷地も広いし、門も囲いも立派なもの。
こんな家には通いにしろ住み込みにしろ家内の世話をする使用人が五人は下らずいるはずなのだが、この勝太郎は自分の側に他人を置いておくのはわずらわしくて嫌だとほざいて一人で住んでいた。食事すら、自分で作っていたのである。
おかげで同じ旗本の中でも類を見ない変り者と見なされていた。これで仕事もできないようならとっくに家は没落しているだろうが、勝太郎の場合、彼がいないと仕事がはかどらない、というくらい役に立つ人間でもあるので、将軍からの覚えも良かったりした。つまり勝太郎は、悪く目立ちがちな自分の主義主張を、努力で保護して良い目立ち方に変えてしまったのだった。
そんなわけで、この屋敷内にいる人間は、現在勝太郎と加助、征士郎、志之助の四人だけであった。静かである。やたら敷地が広い分、余計に静かだ。
「なんか、落ち着くよね。このお屋敷って」
「そうか? 静かすぎて逆に落ち着かないが」
前の台詞が志之助で、後の台詞が征士郎のものである。
暖かい濡らした手ぬぐいで身体を拭い、長旅でぼろぼろになった着物から勝太郎が用意してくれた浴衣に着替えて、二人は部屋でのんびりとくつろいでいた。
旅の途中野宿ということもあった彼らにとって、ここは天国のような場所である。ゆったり夢心地になるのも無理のない話だ。
ごろんと寝転がって、征士郎は天井を見上げた。浴衣の裾がはだけてふんどしが見えていても、まったく気にしていないらしい。志之助はいつも着流しで慣れているせいか、見事に大事な部分だけ隠して、足を伸ばして壁に寄り掛かっている。はだけた浴衣の合わせからのぞく臑が妙に艶かしいのだが、それも征士郎はとうに見慣れてしまっているらしい。
「で、しばらくここで休むとして、その後どうするね、しのさん」
「うーん、どうしようね。ちょっと江戸に腰を据えてみる?」
それもいいな、と征士郎も頷く。
出会ってから約二年。征士郎は二十五才、志之助は二十八才になっていた。いい加減腰を据える時期に来ているのは確かである。
京の都より西に行けない彼らは、この二年で東日本を踏破していたので、これからまた旅に出ようにも目的が皆無なのだ。目的のない旅はあまり面白いものではない。
「腰を据えるとなると、稼がないとね」
「そうだな。いつまでも兄上のご厄介になっているわけにもいくまい」
「せいさん、あて、ある?」
「俺か? そうだな、剣の腕を利用するなら、道場を訪ねれば稼ぎ口の紹介もしてくれるかもしれんが。しのさんはどうするのだ?」
「江戸には知り合い、いないんだよねえ」
だろうな、と征士郎も苦笑した。
征士郎は出身が川崎だし、剣術の道場も江戸にあったから、頼る先はいくらかあるのだが、志之助は出身が京である。知りあいなどいようはずもない。頼れるといえば、比叡山と同宗派の寺院くらいだが、山から逃げ出した志之助が訪ねられる先ではない。
「兄上にお知恵を拝借するか」
「結局頼ることになるんだね」
「嫌か?」
「嫌じゃないよ。ただ、大の男が二人も雁首そろえて、情けないと思ってね」
「仕方なかろう、江戸者じゃないんだ、俺らは」
そうと決まれば早速、と征士郎がむっくり起き上がる。不精髭が年を実際以上に見せている相棒を見上げて、志之助は困ったように笑ってその後に続いた。
一人暮らしで給金をやる相手がいない勝太郎は、どうせ金を使う人間もないのだからずっとここでのんびりしていればいいのにというようなことを言ってくれたが、それでは申し訳がないと二人声をそろえたことで納得してくれ、仕事を探してやろうと請け合ってくれた。
というようなことを話しているところに、風呂が沸いたと呼びに来た加助が、それなら、と話を持ちかける。
「ちょうど同じ長屋に住んでいた長兵衛というやつが小間物屋を営んでいたんですがね、つい二、三日前にぽっくり逝ってちまいやして。身寄りもなかったもんで、その店がそっくりそのまま商い人もなく放ってあるんでさあ。今は長屋の地主の松駒屋さんが管理してるって話ですから、行ってみたらどうです? 二階屋で一階の半分が店ってところですから、住むにもかなり快適ですよ」
なんだったら明日案内しましょうか、という加助に、志之助は征士郎を見つめる。その目の色からして、どうやら話的には気に入ったらしい。後はその小間物屋を見てから、というところのようだ。
征士郎も頷いた。かなり良い話だ。これを逃せば他にいい職はない、というくらい良い話だった。何しろ、家と職が一度に手に入る。こういうことは運と縁が勝負の鍵なのだ、とは志之助の知識と実体験に基づく教訓である。
「明日、案内していただけますか?」
「へえ、ようござんすよ」
お風呂沸いてますから、と言って、加助は腰をあげた。これだけ年を取ると、夜遅くまで起きるのも大変なようで、おやすみなさいと言い残して部屋を出て行く。おう、とだけ勝太郎は答えた。
加助の姿が見えなくなったところで、そういえば、と征士郎が首を傾げた。
「そういえば、兄上。今まで住みこみどころか通いの使用人も雇わなかったというのに、どういう風の吹き回しです?」
「ああ、加助か?」
答えて、ふふっと勝太郎が笑った。
「あやつな。こともあろうかこの私に、スリをはたらいたのだよ」
先に風呂に入ろうかとそこを立とうとした志之助が、勝太郎の返事にびっくりして動きを止めた。
「スリ、ですか?」
「それが、どうしてこういうことになってるんです?」
「いや、その場で気がついたから被害もなかったしな。聞いたらつい十日前に一人娘を亡くして、今まで何も喉を通らず、葬式で無け無しの金を全部使い果たして金もないと、そう言うじゃないか。ガラにもなく同情してしまってな、ならばうちで働かんか、とな。いくらまわりに人がいるとうっとうしいとはいえ、一人ではやはり物騒だし、何かと手が足りなくてな。年寄り一人くらいなら構うまいと。軽率だったか?」
「いいえ。兄上にしては珍しい、と」
「ああ、かもしれぬな」
ははっと楽しそうに笑う。この豪快さが勝太郎らしい。何事もわっはっはと笑い飛ばしてしまえるというのは、結構貴重な人材だ。将軍に気に入られているのも、案外こんなところなのかもしれない。
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