弐の3




 茶を飲み干して、征士郎はようやく、志之助が今日は珍しく少し考え込んでいるのに気づいた。例えば、自分と話していないふとした瞬間に、真面目な表情をして黙り込んでいるのだ。微妙な変化なのだが、征士郎にはそれが気にかかった。

「どうした? しのさん」

「ん。実は、下手人の片方の正体が、わかっちゃったみたいで」

 それは、わかってはまずいような反応だった。それが不思議で、征士郎は首を傾げる。

「何があった? 新田が訪ねて来ただけではないのか?」

 尋ねられて、志之助はただ首を振った。それは、違うともそうとも、どちらにも取れる反応で、征士郎が眉を寄せる。

「しのさん。俺には教えてくれないのか?」

「あ、ごめん。違うの。そうじゃなくて」

 少し不機嫌そうな征士郎の声に、志之助は慌てて顔を上げた。ぱたぱた、と手を振る。それから、また俯いた。

「その下手人がね。新田様の恋人なんですって。だから、どうしたら良いのかわからなくなっちゃって」

 それは、それだけを聞いた征士郎には衝撃の新事実で、あんぐりと口を開けた。

 新田の話は、その恋人のことであった。

 付き合うようになってかれこれ二年が経つ、深川の芸者であるという。新田自身は某藩に仕える藩士の次男であり、どこかに養子先を見つけるか奉公先を見つけるかする以外に独立する術はなく、日々をただ淡々と過ごしている立場である。彼女を身請けして結婚するにも力が足りない。それで二年もずるずると待たせている状態であった。

 そんな彼女が、最近は付き合いが悪いのだという。職業柄、もしかして浮気でもしているのでは、と不安になった新田は、ある夜、仕事を早めに切り上げて家路とは違った道を行く恋人をこっそり追いかけた。そして、その現場を見てしまったのだというのだ。

 それは、結構な家柄を感じさせる身なりの男の、首筋に牙を立てる女の姿であった。その女は、慌てて隠れた新田には気づかなかったようで、急ぎ足に駆け寄ってくる新田の恋人に気づいて、人間とは思えない跳躍力で近くの屋根に飛び上がり、あっという間に見えなくなった。

 あまりの出来事に、開いた口がふさがらないまま、女が去っていった方をただ見つめてしまっていた新田の耳に、恋人の声が聞こえてきた。

『また逃がした。これで何度目かしら』

 そして、足元に倒れている男の腹に、隠し持っていた匕首を突き立てると、大きく腹を引き裂いて、そこに顔をうずめたのだ。月明かりに照らされて顔が見える男の顔色が、見る見る血の気を失っていく。血を吸い取られていく男が腹を割かれても悲鳴一つ上げなかったところを見ると、すでに事切れていたか、気を失っていたのだろう。どちらなのかは新田からは判断できなかった。

 しばらくして、恋人は顔を上げると、自分の口の周りに残る血を拭い取り、体中の血液を失って幾分軽くなった男を引きずり始めた。それは、いくら血液を失っているとはいえ、女の細腕で引きずれる重さではないはずで、そんな意外な腕力に驚く。彼女は、迷うことなくまっすぐに近くの川へ向かうと、男を川に突き落とした。

 新田は、最後まで見守ったものの、恋人に声をかけることも出来ず、呆然としてそこを立ち去った。どこをどうやって自宅に戻ったか、はっきりとは覚えていないのだという。

「また逃がした?」

 新田から聞いた話を、そのまま征士郎に話して聞かせる志之助に、征士郎は聞き返した。そう、と志之助が頷く。

「意味深な言葉でしょう?」

「その新田の恋人とやらも、もう一人の下手人を追っていたということか」

 噛み砕いて、ふむ、と腕を組む。首をかまれてから腹を割かれている順番が、志之助の見立て通りで、どうやら新田の証言は事実に違いなさそうなのだが、だからこそ、考えてしまう。新田の恋人は、確かに、下手人の片方ではあるらしい。だが、もし、もう一人の下手人を追っているのであれば、それは、一概にその女が悪者であるとは言い切れないのではないのか。

 何にせよ、もう一人を追っている理由が知りたいところだ。

「で、どうするのだ?」

「明日の夕刻、新田様にもう一度来て頂くことにした。せいさんも一緒に、彼女に会いに行こう?」

 なるほど。実際に首実検もかねて直接対決しようということらしい。少なくとも、相手がまだ生きている人間であれ、すでに殺された後であれ、腹を割いているのには違いない。問い詰めるのは、必要だ。

「うむ。心得た」

「それと、おりんさんにも同席してもらえないかな? おりんさんも、深川でしょう?」

 それは、もちろん、協力するように将軍直々の命令が下っているからでもあるのだが、それ以上に、同じところで働く同業者であればおそらくは顔見知りであろうから、何かと話をしやすいのではないか、という配慮からだった。うむ、と征士郎はこれにも頷いた。

 それにしても、話は意外なところから急展開するものだ。まさか、物のついでに訪ねた恩師つながりで、解決の糸口を発見するとは。

「で、新田はどうしたいのだ?」

「どうしたいのかもわからないんだって。ただ、ほら、人の血を啜るなんて、人間にあるまじき行為でしょう? だから、もしかして妖怪なら、俺に相談してみたらどうか、って思ったらしいよ」

 なるほど。新田の行動としては、実に理にかなっている。自分で手に負えない問題は、専門家に相談するのが一番だ。その専門家に、偶然にもつながりが出来たので、居ても立ってもいられなくなったらしい。

「で、それは、妖怪なのか?」

「それこそ、本人に聞いてみるべきじゃない? 明日会うんだし」

 そうやって、何故か志之助が即答を避ける。こういう返事が返ってきたときは、志之助としても判断に迷っている場合が多い。今回もそうなのだろう。ということは、征士郎にはなおさら、わかるわけがないのだ。ふぅん、と相槌にならない相槌を打つくらいが関の山だ。

 志之助が茶を飲み干すのを待って、征士郎は食事を終えた食器をそろえて立ち上がる。きちんと分担が出来ているのだ。志之助の分も持って洗いに行ってくれるのを見送って、志之助はへっついの火を片付ける。種火を消さないように、灰の中に埋めて、不要な分は燃やし尽くさなければならない。後始末も意外と大変なのだ。

 ほぼ同時にそれぞれの作業を終えると、戸棚の上に乾かして置いてある風呂桶を二つ手に取り、征士郎は志之助に片方を持たせて、家を出る。後から、戸締りをして志之助が出て行くと、二人は手をつないで、夜の闇へと消えていく。もちろん、近所にある湯屋へ、汗を流しに行くのである。そろそろ、店じまいの時間だ。この、ギリギリの時間が、反対に二人にとっては人目を気にせずゆっくり湯につかる絶好のチャンスで、湯屋の主人も、最近では、店じまい直前にやってくる常連客を待っていてくれるのだった。





[ 40/253 ]

[*prev] [next#]

[mokuji]

[しおりを挟む]


戻る



Copyright(C) 2004-2017 KYMDREAM All Rights Reserved
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -