弐の2




 夜になって戻ってきた征士郎を、店じまい中だった志之助が、心配そうな表情で迎えた。茅町といえばそう離れていないはずの場所なのだ。そのわりには遅い帰宅であった。

「お帰りなさい。どうだった?」

 そんな、心配そうな志之助の声に、征士郎は安心させるように笑って返す。ぐりぐり、と志之助の頭を撫で付ける。

「朗報だぞ。しのさん」

 その明るい声にほっとして、志之助も嬉しそうに笑った。先に部屋に促して、店じまい作業を続ける。表に出していたのれんを引き込み、雨戸をはめ込む。

 最後の一枚をはめたところで、志之助は征士郎に背後から抱きしめられた。きゃっ、と短く悲鳴を上げたそれが、まるで女のような反応で、征士郎が何故か楽しそうに笑い出す。志之助が、恥ずかしがって頬を染めたまま、唇を尖らせて征士郎を振り返った。

「もう。奥におつねさんがいるんだけど?」

「おう、それは気づかなんだ」

 そう言いながらも離れようとしない征士郎を、志之助は不思議そうに見つめる。土間の方からおつねが顔を出しても、さっぱり気づいていないらしい。二人がいちゃいちゃしているのを見て、おつねは軽く肩をすくめる。

「お二人さん。ご飯出来ましたよ」

 声をかけられて、志之助はいつまでも抱きついている征士郎を引き剥がした。征士郎も、残念そうだが素直に引き剥がされる。それから、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしている志之助の頭をくしゃくしゃと撫でて、先に部屋に入っていった。深いため息をついて、志之助もその後に続く。

 今日の献立は、鰯の塩焼きと冷奴、それに鰯の頭で出汁をとった味噌汁に麦飯だ。つまり、食材としては鰯と豆腐を買い揃えてすぐに出来た、というレベルの品である。良い色に焼けた鰯に箸を突きたてて、征士郎は嬉しそうにしている。ということは、美味であるらしい。

 しばらく黙々と食事を取っていた志之助が、箸の先をくわえたまま、そういえば、と旦那に視線を向ける。

「朗報って?」

 尋ねられて、味噌汁のおかわりに手を出していた征士郎が手を止める。

「おう。そうだ、朗報だぞ。寺子屋の代役と俺の次の働き先が決まった」

 は? 寺子屋の先生の代役を探していることすら知らなかったおつねが、それが何故朗報なのかわからずに、首を傾げる。志之助も、きょとん、と呆けた表情だ。

「何だ、反応が薄いな。今日行って来た近藤道場で学んでいる、二十二歳の御家人の家のご子息でな、職を探しているところだったらしいのだ。俺は、その代わりに、近藤道場に出稽古に出ることになった。二、三日に一回だから、そうそう負担にもなるまい? 足りぬようであれば、他にも出先がないか探してみても良かろう。何にせよ、ある程度時間が自由にならねば困ることには違いあるまい。ちょうど良い働き口だ」

 もちろん、収入は減るが、それで困ることはない。征士郎が無理に働きに行く必要は、本当はないのだから。

 それは、志之助が聞いても悪い話ではなかった。良かったねぇ、と少しは嬉しそうにそう答えて、食事を再開する。その反応の薄さに不満そうな顔をした征士郎だったが、それから、肩をすくめた。おつねがまだびっくりした様子だったのだが、それも、しばらく考えて、彼女なりに腑に落ちたのだろう。空になった茶碗に味噌汁の残りを流し込み、それを飲み干した。行儀が悪いのではない。それが、茶碗の片づけを楽にする方法なのである。味噌汁で、茶碗にこびりついた飯粒を洗い流すわけである。

 食後の薄茶を手に、食休みをしているところに、裏口の戸が叩かれた。志之助が応対に出ると、それは、勝太郎であった。

「おう。まだ食事中であったか」

 入ってきながら、勝太郎が食膳を前にした征士郎とおつねを見て、そう言った。戸口に木の棒をつっかえて戸締りをして、志之助がその後ろから戻ってくる。

「中村様は、御夕飯はもう召し上がりましたか?」

「うむ。家で食ってまいった」

 土間に下りて、まだ少し残っている味噌汁をかき混ぜながらそう尋ねたおつねに、勝太郎は答えて優しい笑顔を見せる。どうやら、結構お気に入りらしい。そう見て取って、征士郎は志之助と顔を見合わせた。

「そうだ。おつねさんに、土産があるのだ」

 そう言って、勝太郎が自分の懐に手を突っ込む。家で着替えてきたらしく、ラフな着流し姿だ。何だろう?とおつねが興味津々の表情でその行動を見ている。

 懐から取り出したのは、布包みだった。それを丁寧に広げると、そこに包まれていたのは、愛らしい細工が施されたかんざしだった。わざわざ買い求めたのがわかる、真新しいものだ。

「今朝、お城へ上がる途中で行商人から買い求めたものだ。おつねさんに似合いそうだと思ってな」

「そんな。あたしには勿体なさ過ぎます。こんな素敵なかんざし。いただけません」

「いや、受け取ってくれ。でないと、これを使うものがおらん」

 そりゃそうだ、うちは男所帯なんだから。そう呟いて、征士郎が苦笑を浮かべる。志之助は志之助で、くすくすと笑っていた。

 二人に笑われて、おつねが恥ずかしそうに顔を背ける。

「受け取ってはもらえまいか?」

 まるでおつねのご機嫌を伺うように顔を覗き込んでそういう勝太郎に、おつねは困ってしまって、救いを求めるように志之助を見やった。助けを求められて、志之助はにっこりと笑って見せる。

「ありがたく頂戴したらいいじゃありませんか、おつねさん。勝太郎殿は、おつねさんに使って欲しくてそれを買ってきたんでしょうし」

 志之助にまでそう諭されて、おつねはもう一度勝太郎を見つめたが、それから、薄く笑んで見せ、頷いた。

「では、ありがたく頂戴いたします」

「良かった。これで、買い求めてきた甲斐もあったというものだ」

 両手を差し出すおつねにそれを渡して、勝太郎はほっとしたように笑った。

 おつねが、送っていくという勝太郎の申し出を断って、逃げるように帰っていくと、征士郎と志之助は、もう耐えられない、という様子で笑い出した。

「兄上。案外不器用ですね」

「案外は余計だ」

 二人揃って笑うものだから、勝太郎がむすっとした表情でそっぽを向いた。志之助は、そんな兄弟の会話を楽しそうに笑って見ている。

「それはそうと、勝太郎殿。何か御用だったのではないのですか?」

「いや、かんざしを持って来ただけだ」

 それは、さもそれが当然のことのように言うので、志之助は少しびっくりしたように目を見張り、それからまた、笑ってしまった。あまりにも真面目なのが、反対におかしかった。

 あまりにも二人とも遠慮なく笑うので、さすがに居心地が悪くなった勝太郎は、これまた逃げるように家に帰っていった。ようやく、夫婦水入らずの時が訪れる。





[ 39/253 ]

[*prev] [next#]

[mokuji]

[しおりを挟む]


戻る



Copyright(C) 2004-2017 KYMDREAM All Rights Reserved
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -