壱の8
今昔物語は、平安末期から鎌倉幕府の時代にかけて編集された、「今は昔……」で始まる物語集である。奇妙な話が多く、子供の寝物語にはピッタリで、安倍晴明という陰陽師も活躍する。
安倍晴明というのは、実在した人物ではあるらしい。天才の呼び声高く、京都の一条戻り橋付近に居を構え、独身時代には屋敷内を荒れ放題にして、式神に身の回りの世話をさせていたという。その妻は、鬼を見る力があり、しかもその鬼が大の苦手だったと言うから、また不思議な選択をしたものである。
今昔物語では、安倍晴明について、こんな逸話が載せられている。
ある日のこと。とある寺院に師匠の代理で訪れた晴明は、その帰り、寺の有閑坊主たちに呼び止められた。坊主の一人の言うことには、
「貴殿は陰陽の天才であると聞く。陰陽道では、人の生き死にさえも左右するとか。ひとつやって見せてはくれまいか」
「たとえば、そこの蛙。あれを、手を触れずに殺めることなど、できようはずもあるまいな」
興味半分で言うには物騒なことを言う僧侶たちに、晴明は軽く眉を寄せ、一つ息を吐き出すと、すぐそばの木の葉を一枚、枝から千切った。
「罪なことをさせまするな」
一言そう言って、手に持った木の葉を無造作に放り投げる。木の葉は宙を舞い、蛙の真上に舞い降りる。
べちゃ。
汚らしい音を立てて、見えない足に踏みつけられたように、ぺしゃんこに潰れてしまった。はみ出した内臓が、無残な姿をさらしていた。そこに居合わせた誰もが、嘔吐を堪え、その場から逃げ出したという。
「それで、志之助殿はできるのか?」
すっかり話を覚えてしまった松安が、実に楽しそうに語り終え、それから志之助に話を振る。志之助は、それを受けて、くすりと笑った。
「できますけれど、気が進みませんね。俺は晴明先生と違って、魂返りの術を知りませんし」
「式に下してやるとか?」
「蛙はちょっと、勘弁してください」
「……誰も、蛙とまでは言っていなかろうに」
「あらまぁ。志之助さんの方が一枚上手ですわねぇ」
くすくすと笑いながら、障子を開けておりんが顔を出す。どうしても話をしたいと言い張る松安の語る物語を、二人は付き合って聞いていたところであった。その間に、昼飯をまだ食べていない三人の男たちのために、おりんが雑炊を作ってくれていたのだが、それが出来上がったところらしい。おいしそうな匂いがする。
円陣を組んでお昼ご飯、という状況を作り出したおりんの手柄で、志之助も仲間に溶け込めた頃。ようやく話を切り出したのは、おりんだった。
別に、遊びに来たわけではない。おりんと仕事の話をしに来たのである。芸者で生計を立てているおりんは、昼は赤坂、夜は深川、という生活をしていて、その彼女と話をしたければ赤坂に来るしかないわけだ。それにしても、毎日その距離を往復している彼女の脚力には恐れ入る。赤坂あたりは坂が多く、船で移動できるような場所ではないので、自分の足で歩いているのだろうからだ。
「それで、志之助さんは、実際どうだと思ってるんです?」
それは、昨夜のおつねのセリフとまったく同じで、少しびっくりして征士郎と志之助は顔を見合わせる。確かに、性格面では似ているところはあるが、発言までまったく同じとは。
「え? 何?」
二人の反応が想像とはかけ離れていて、おりんが戸惑ってしまう。戸惑われてから、志之助も征士郎も、軽く肩をすくめて笑いあった。征士郎が人の悪い笑みを浮かべる。
「おりんさん、もしかして、神田あたりに双子がいたりしないかい?」
「似てる似てるとは思ってたけど、ここまでとはねぇ」
隣でそう相槌を打つ志之助も、実に楽しそうだ。そんな反応を受けて、おりんは困って松安に目をやる。さすがの松安も、何がそんなにおかしいのかわかるはずもなく、首を傾げるくらいしか術がない。
「一体、何だというのだね、二人とも」
「いえ、すみません。何しろ、昨夜まったく同じセリフを聞いたもので」
くっくっと、弁解する間も、征士郎は笑い続けている。仕方なく、そのまま放っておくことにした。笑いの収まったらしい志之助に視線を向ける。
「で?」
「えぇ。実を言うと、今はさっぱりわかりません。仏さんを見れば、少しは真実に近づけるでしょうが、それで下手人まで割り出せるわけではないでしょうし。今回の場合、妖怪の仕業とするにも、人間の仕業とするにも、疑問が残るんです」
「……それは初耳だな」
「うん。まだ言ってない」
夫であるはずの征士郎に突っ込まれて、しれっと返す。征士郎にも言わなかったということは、まだ自分の中での整理がついていなかったのだろう。
「まぁ、単純ですけどね。妖怪であるなら、腹の切り裂き傷が余計ですし、人間であるなら、首筋の二つ穴の説明がつかない」
それに、連続殺人事件という点も引っかかる。まったくの通り魔殺人にしては共通点がありすぎるし、逆に怨恨であるならばこの人数は多すぎる。
「下手人が二人いる、ということはないか? まったく別の」
「腹を割かれた仏を見つけて首筋から死に血を吸い取る趣味のある吸血鬼なんて、そういないと思いますよ。考えなくはなかったですけれど」
「そうだよなぁ。死んでる奴の血を啜っても、うまくなかろうしなぁ」
松安に問われて、また二人でどこか分かり合っている話を始めてしまう。のけ者扱いされている征士郎とおりんは、それを薄茶を啜りながらのほほんと聞いていた。二人とも、頭脳労働派というよりは肉体労働派なタイプで、難しいことは相棒に任せているのだ。
「そうすると、まずは仏さんを見ないことにはどうにもならない?」
「いえ。とりあえず、被害者の共通点から探します。何か取っ掛かりになるものを見つけないと」
「その辺は、奉行所の捜査方法と同じなのだな」
ほう、と感心したように息を吐き、松安は冷めかけた茶を啜る。えぇ、と志之助も頷いた。
「つきましては、おりんさんに探ってもらおうと思っていたことを、松安先生にお願いしたいのですが」
「奉行所で持っている情報、か?」
はい、と頷かれて、松安は腕を組む。情報を教えたくないわけではないが、志之助の欲するものをすぐに提供できるような立場でもない。所詮は町医者。父のつてを頼るにも限界がある。どこまで役に立てるものか。
「役に立てると良いがなぁ」
「今のところ、被害者の素性、住まい、当日の行動がわかるだけあれば」
「そのくらいなら」
ちょっと待ってろ、と言って、松安が隣の間へ入っていく。その程度の資料は、父に泣きつかれたときにもらってきていたのだ。
どうやら志之助は、あまりにも漠然としていた要求に松安が困ったことに、気づいたらしい。まったく、気が回る男だ。
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