壱の4



 翌日。

 神田明神下にある小間物屋、『中村屋』の店先に、店主である志之助の姿はなかった。代わりに、橙の花の着物を着た女性と橘色の羽織の男が、店番を務めている。二人とも口がきけないので、値段は筆談で伝えられた。難しい文字は無理でも、値段の読み書きくらいなら、その辺の百姓でも出来る。それと、常連客が親切に通訳してくれるので、特に問題もないらしい。

 そうして店を空けた志之助は、その時、赤坂にいた。数年前まで、征士郎の実家である中村家は赤坂に居を構えていて、征士郎の知り合いも赤坂に多い。武家屋敷が建ち並ぶ通りで、征士郎が先に立って歩いている。

 将軍家斉と知り合ってからというもの、こうして家を空けることが増えていて、征士郎はその度に寺子屋の先生の仕事を休ませてもらっていた。ちょうど寺の本堂を教室としていることと、もともと征士郎の仕事も寺の住職の手伝いという位置づけだったので、迷惑をかける相手もその住職だけなのだが、こう頻繁だと申し訳ない。志之助の小間物屋と違い、他人に迷惑をかけなければならないのは、出来れば避けたいところなのだが。誰か代わりの人を探してきた方が良いのかもしれなかった。

「とはいえ、知り合いもいないしなぁ」

「いても、みんな仕事を持っていて、忙しいものね」

 頷いて、返す。基本的に知り合いが少ない上に、二人が住んでいる場所が下町も下町で、浪人すらほとんどいない長屋なので、『中村屋』の客も町人ばかりだ。先生になれるほどに学があって、尚且つ暇な人など、とりあえず身近に心当たりがない。

「まぁ、道場で話を出してみるさ」

 そのために、というわけではないが、二人が向かっているのは、征士郎が昔通っていた剣術道場であった。七年ぶりの訪問である。志之助も、征士郎がどこかの道場で免許皆伝を受けたということしか知らず、その道場が城の反対側にあるということすらも、昨夜聞いたのが初めてだった。

 突然、師匠に会いに行く、と言い出したのは、昔馴染みであるおりんに再会したのがきっかけだった。征士郎が師に会いに行こうと思い始めてから、すでに一年が経っていた。今まで忙しさにかまけて後回しにしていたのだが、良い機会だ。ちなみに、昼過ぎごろ、この近くの診療所でおりんと会う約束になっている。

「師匠、驚くだろうなぁ。俺がしのさんと一緒になったことを話したら」

「……話すの?」

「おう」

 当然のことのように、征士郎は頷く。よほど関係の深い人以外には、男同士だなどという常識外れは、打ち明けない方が良いのだが。

「師匠は、俺にとっては、父上も同じ存在だ。俺が選んだ大事な人だからな。認めて欲しい」

「……そっか」

 そうだね、とは、志之助には言えない。そういうものなんだ、と感じる程度である。というのも、志之助には親もなければ師もいない。尊敬する師はとうにこの世になく、健在な人もいることはいるのだが、その師匠に呆れているようでは話にならない。ついでに、物心つく前に両親を亡くしているため、父親がどういう存在なのかも良くわからない。よって、そういう想像が難しいのである。志之助は、今まで家族同族の情というものに無縁で育ってきているのだ。仕方のないことである。

 おう、ここだ。そう言って、征士郎は開きっぱなしの門を断りもなくくぐっていく。その堂々とした姿に、志之助はただついて行った。

 この道場。界隈では立花道場で通る、名の知れた剣術道場である。門下生は百を数え、それなりに活気がある。道場主の立花宗方は、齢六十を数える老齢であるが、これでもまだ師範となった息子に負けたことのない、強豪であった。見た目には、大店の隠居といっても通るような、華奢な身体つきをしているので、そうは見えないのだが。

 覗いた板張りの道場で、道場主は上座に陣取り、門下生たちの練習風景を眺めていた。その前には、三十後半か四十そこそこの男が姿勢を正して座し、さらに前に二十代の若い男が二人、睨みをきかせて立っていた。座っているのが宗方の息子で当道場師範の彦十郎、立っている二人は古くからの門下生で師範代の真壁稲蔵と新田五郎という。征士郎がここに通っていた時も、もちろんいた面々である。

 戸口の傍に座っていた少年が、征士郎に気づいて見上げたのに、征士郎は目の高さまでしゃがんで、声をかける。

「すまぬが、宗方先生をお願いできまいか?」

「はい。少々お待ちください。恐れ入ります、お名前を」

「中村征士郎と申す」

 はい、と頷いて、立ち上がる。びしっと背を伸ばしているので立ち上がるまで気づかなかったが、まだ幼かったようだ。四、五歳くらいか。

 少年に促されて、なんと、道場主、師範、師範代、それに、二十歳を過ぎたくらいの年齢の人が、全員一斉に戸口に視線を向けた。中央で行われていた練習試合にすら、一時停止がかかる。

「中村ぁ。おぬし、生きておったかぁ」

 まず真っ先にそう口を開いたのが、師範代の新田。その声を合図に、我先にと人が集まってきて、あっという間に戸口は黒山の人だかりになってしまった。征士郎を知らない若い衆や新参者が、遠巻きにそれを眺めて顔を見合わせている。

 後から杖をつきつつゆっくりやってきた宗方に道を譲り、人だかりが半分に分かれる。目の前までやってきて、昔の愛弟子を見上げ、宗方は満面の笑みを浮かべた。

「久しぶりじゃ。よう来たのぅ」

「ご無沙汰を致しておりました。ご容赦ください」

 深々と頭を下げる。周りは、二人の言葉を一言たりとも残さないようにと、水を打ったように静まり返っている。

「今日は、ゆっくりしていけるのかの?」

「いえ。松安先生の診療所に午後伺う予定がありまして。その後でしたら明日まででも」

「ほっほっ。明日までは良かったな。そうか。ついでがあったか。何ぞ訳ありのようじゃの」

 そう言って、宗方は征士郎の背後に佇む初対面の青年に眼を向ける。その洞察力も衰えなく、肯定も否定もせずに、征士郎は深く頭を下げる。

 二人の会話は一段落したと見たのか、そこへ新田が口を挟んだ。

「中村。午後というと、今少し時間がある。少し振っていかぬか?」

「これ、五郎。久しぶりじゃというのに、早速それか」

「いえ、師匠。お許しいただけますなら、是非」

 元々、それが目的なところがある。たしなめる宗方に、征士郎はそう答えた。それを聞いて、新田が目を輝かせた。志之助は、なんとなく征士郎が道場に来たがっていた理由がわかって、肩をすくめる。

「しのさん」

「いいよ。待ってる。でも、俺は全然気にしてないのに。かなり頼ってるの、わかるでしょ?」

「俺自身が不満なのだ。しのさんを助けようとするたびに、自分の無力さに打ちのめされる。まだまだ修行が足りない」

 つまりは、現在の自分を知る、力試しをしたかったのだ。尊敬する師に評価してもらいたかったところもある。そのくらいのことは、別に特別な力を使って心の中を覗かなくても、想像に難くない。誰よりも傍にいて、いつでも彼の言動をずっと見ているのだから。

 具体的な言葉が伏せられていたにもかかわらず、そのニュアンスで大体を察したようで、宗方は手合わせを許可することにした。

「しかし、中村殿が相手では、五郎でも力不足であろうしのぅ。彦十郎。どうじゃ?」

「是非」

 名を呼ばれて、師範彦十郎が姿勢を正す。姿勢を正すほどの相手だという認識があるわけだ。改めて、すごい人と一緒になったなぁ、と思う志之助である。それでも力不足だと言わせてしまう自分のことは、すっかり棚の上だ。

 宗方の許しを受けて、集まっていた人々は、そそくさとその場を離れていく。そのまま左右に展開して、とにかく近くで見物しようと、稽古場を取り囲んだらしい。そんな反応に、宗方も彦十郎も、苦笑を隠せない。

「お手柔らかにな」

「いえ、こちらこそ」

 悪いな、と志之助に手を合わせ、征士郎もまた、先に行った彦十郎を追いかける。その彼を頼もしく見守って、それからふいに、苦笑を浮かべた。

「せいさん。刀」

「……おう。悪い。頼む」

 ぽいっ、と無造作に投げて寄越すのを、危なげなく片手で受け取る。それだけで二人の信頼度と力量が測れたようで、真壁は他の連中とは違い、志之助に目を奪われる。道場の中心では、得物を竹刀に持ち替えた征士郎と彦十郎が、互いに礼をしているところだった。





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