壱の1




 その二人、普段は神田明神下界隈に居を構える、一風変わった夫婦だった。何が変わっているかといえば、まず大いに変わっているのが、男同士だという点だろう。それを公言しているわけでもないのだが、二人を良く知る人々にはいつの間にか知れ渡っていて、しかも自然に受け入れられているところがまた、変わっていた。

 そして、こんな所に堂々といられるのもまた、変わっているところの一つである。何と言っても、ここは江戸の中心、時の将軍、徳川家斉が住居としている江戸城の中なのである。それも、目の前には家斉本人が、もう少し寄れば膝がぶつかりそうな近距離にいるのだ。大名でさえ、特に将軍に近い役に任じられていない限り、近寄ることさえ出来ない距離である。

 さらに驚くべきことに、家斉自らが、二人に向かって、直接こんなことを言うのである。

「といったわけでな。調べも思うようにはかどらぬまま、これでもう15件じゃ。何とかならぬものかのぅ、志之助よ」

 一ヶ月前からで立て続けに発生している、吸血鬼事件のことであった。下町、特に川に近いところでは、噂が尾ひれ背びれをつけて、かなりの騒ぎにまでなっている。二人の耳にも、当然入っていた。

「奉行所側でも、まだ、事実以上のことはわかっていないんですか……」

 ふぅん、と呟いて、志之助は顎に手をやり、考え込む。その夫、征士郎は、心配そうに志之助を見つめた。

 志之助の情報通ぶりは、なかなか侮れないものがある。何しろ、神田明神下を中心に向こう三町先まで知れ渡る人気小間物屋、『中村屋』を一人で切り盛りしている店主なのである。近所の主婦やら買い物にやってくる使いの丁稚やら奉公娘やらが、いろいろとあることないこと教えていってくれるのだから、志之助としては、話の真偽を見極める目と、必要な情報とそうでないものを分ける力さえ持っていれば、自然と情報通になってしまうのである。

 そんなわけで、この件も、奉行所が掴んでいることくらいの情報は、すでに耳に入っていた。

「とりあえず、問題の仏を見てみたいですね。本当に妖怪の仕業なのか、人間の仕業なのか。区別してやらないと」

「ほう。妖怪であるとは断定できないと申すか」

 そう返してきたのは、同席した老中、松平定信である。基本的に庶民でしかない志之助に、良い印象は持っていない人物であった。確かに、天下の将軍と一般庶民がこれだけ砕けた話し方をするなど、政治に携わるものとして、認められるものではなかろうが。家斉が気に入っている旗本、中村勝太郎のつてなので、表立って追い返すことはないが、それでも、勝太郎の弟である征士郎も含めて、良い顔はしない。

 その松平に、志之助はあっさりと肯定してみせる。

「妖怪とは、その大部分が人間の恐怖の心を具現化、もしくは象徴化したものです。基本的に、人間に対して悪さを働くようなことはありませんよ。時には、そのくらいの力を持つ妖怪もいないこともないですが」

 つまり、志之助の説明によると、妖怪と呼ばれるものの大部分は、実体のない概念のようなものであり、害を及ぼすようなことはありえないのだ。たまには、実体を持つほどに成長してしまう妖怪もいるが、それでも、直接人を殺めるようなことはほとんどない。そんな事実があれば、それこそ、妖怪を信じるか信じないか、などという議論をしている場合ではないからだ。

 確かにその通りで、異を唱えるまでもない説明であった。実際、松平は目に見えないものは信じない性質である。

「しかし、仏といってものぅ。今奉行所で預かっている仏はないし。次の犠牲者が出れば知らせるくらいしか出来んぞ」

「あまり嬉しいことではないですね。次の犠牲者を待つというのは」

 そう言ってため息をつくのは、征士郎である。そうそう、と松平も頷く。困ったように家斉は腕を組んだ。

「他には見分ける手はないのか? 志之助」

「難しいところですね。この際、人間の仕業とひとまず断定して、調べを始めたほうが良いかもしれません」

「しかし、まぁ、次の犠牲者が出ないうちに解決してもらいたいものだな」

 何ともはっきりしない志之助の返事に、松平がまぜっかえして見せる。間違ったことを言われたわけではないので、志之助も征士郎も苦い顔で頭を下げた。

「そういうことは、この二人ではなく、奉行所にこそ言うべきであろうな。この二人には、捜査の権限もなければ義務もない。余が相談しているからこそ、特例を与えられて、解決できれば恩賞も出る。だが、それ以外に二人に益はないのだ」

 こう言って、家斉がたしなめる。松平に対してそんなことができるのは、彼の身内以外には、この家斉だけである。そんな相手でもなければ、志之助がこれだけ大人しくしているはずもないのだが。

 将軍にたしなめられて松平が一礼をした丁度そのとき、閉じられた障子の向こうに人の影が出来た。跪いたので人とわかるだけで、背格好さえ判別不可能だが、この城でこんな深い場所まで直接来られる人物は数が限られている。

「上様。中村です」

 それは、近頃では、大名だろうが御三家だろうが、彼を通さなければ家斉の前に影すら見せることが出来ない、その取次ぎ役であった。ここにいる征士郎の兄、中村勝太郎である。この二人を将軍家斉に引き合わせた張本人であった。松平は後悔しているのだが、家斉本人は最大級の手柄だと思っている。

「何事じゃ」

「は。竹中紅寿殿がお見えです」

「おぅ、来たか。待ちかねたぞ。苦しゅうない、ここへ通せ」

 御意、と短く答えて、勝太郎は室内に顔も見せないまま、歩み去っていく。

 竹中の名を聞いて、松平はほっとした表情になった。竹中紅寿とは、将軍家に仕える御庭番衆の中でも優秀な部類に入る一隊の隊長を務める、忍者の名だ。本人は、普段は無役の旗本としてのんべんだらりとした生活を送っているのだが、それは実は仮の姿で、正体は歴史上でも屈指に入る力の持ち主であった。松平も、素性がはっきりしている分、信用を置いている。

 しばらくして、中村勝太郎は二人の影を連れて、障子の向こうに舞い戻った。去る前と同じように膝を着いて、声をかける。家斉の許可を得て、はじめて目の前の障子を開けた。そこから一歩下がって道を作り、連れてきた二人を部屋へ促すと、自分は再び障子に手をかける。

「中村。良い。そちもここにおれ」

 障子に手をかけた意味を、家斉は正確に捉えていたらしい。は、と短く答えて、敷居のすぐそばに席を取る。それにしても、家斉の状況判断能力は侮れない。

 ところで、竹中に伴われてきたのは、若い女であった。竹中の隊のくの一なのだろう。黒い忍者服を身にまとって、平伏している。竹中がその彼女に軽く目をやって、主君に向き直った。

「わが隊で男に負けぬ働きをいたします、くの一でございます」

「うむ。忍び者の本業ではないが、よろしく頼むぞ」

「勿体なきお言葉」

 家斉と竹中がする会話を横で聞いて、志之助と征士郎は顔を見合わせた。二人とも不思議そうな顔をしている。そもそも、征士郎はともかく志之助もいる場所へ、事情を知らない第三者をわざわざ呼びつけたのは何故なのか。ここに志之助がいることの不自然さは、家斉とて知らないはずはないのだが。それも、何故女忍者なのか。

「志之助。そなた、その術にて犯人を当てることも出来ような?」

「お望みとあらば」

 戸惑いを隠さず、とりあえず否定する必要もないことなので肯定しておく。うむ、と家斉は非常に満足そうに頷いた。

「では、頼もう。竹中とこれなるくの一を好きに使うが良い。奉行には話をつけておく。今世間を騒がせている連続殺人事件の下手人を見つけ出せ。それが妖怪であれば、そなたの裁量で片をつけよ。人であっても生死は問わぬ」

 表舞台では、松平の陰に隠れるように大人しい家斉が、はっきりと命じた。志之助と征士郎は、そんな将軍の命令を、畳に額がつくほどに平伏して、受けた。

 今現在、この世の誰よりも頼りにしている庶民の二人を満足げに見やり、家斉はそれから、新顔のくの一に視線を移す。

「して、そこなくの一、名を何と申す?」

 家斉に問われて、竹中が彼女をつつく。自己紹介しろ、ということらしい。竹中はつついたきり、背筋を正して黙って座っている。隊長は助けてくれないらしいと判断して、彼女は、すでに下げている頭をさらに畳に押し付けて、ようやっと声を出した。

「はい。草壁りんと申します」

 その名の通り、凛と通る声で、はっきりそう答える。声の張り具合から、大体二十代後半と見て取れた。何を商売として暮らしているのか、言葉運びはちゃきちゃきの江戸っ子風だが、不思議な色香を感じさせる。くの一は、芸者に身をやつすことが多いというが、彼女もその一人だろうか。

「うむ。苦しゅうない、面を上げよ」

「はい」

 将軍の許しを得て、りんはゆっくりと顔を上げる。忍び者として鍛え上げられた身体とはとても思えない、女性らしいしなやかさで身体を起こした。薄く紅を引いた口元が、色白の肌に映える。ポニーテールに結い上げた髪はぬばたまの黒髪。さらしを巻いても隠せない豊満な胸が、男の欲望をいやがおうにもそそる。

「あっ……!」

 声を上げたのは征士郎だった。りんも征士郎を見つめて驚いている。志之助が相棒と彼女を交互に見やって、首を傾げた。もしかして、知り合いなのだろうか。

「ほう。顔見知りか、そちたちは。ならば話もしやすかろう。余に用があれば、中村を通し、何なりと申すが良い。中村、仲介を頼むぞ」

「御意」

 答えて、頭を下げる。満足そうに頷いて、家斉はその場に立ち上がった。そのまま部屋を出て行く。松平もまた、全員が平伏している中、家斉に従って部屋を出て行った。出て行く二人を、残された全員が、平伏姿勢のまま見送るのだった。





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