参の7




 ふわわわと大きなあくびをした志之助を見て、征士郎は何故か幸せそうに笑った。大きく開いた口を閉じて、何?と怪訝な様子で志之助が問い返す。

「いや。眠そうだと思ってな」

「眠いよお。睡眠時間二刻半しかないんだから。いつもどのくらい寝てるよ、俺ら」

「四刻は寝てるな。確かに寝足りない。だがまあ、仕方あるまい。上様と兄上のたっての頼みとあれば」

「お城から正式に早馬出せば速いのになあ」

 ぶつくさ言いながらも、足はすてすてと先を歩いていく。

 まわりに広がるのは延々続く田圃の緑だ。遠くに山が見え、てんてんと、庄屋らしい立派な塀に囲まれた瓦葺き屋根と納屋のような小さな家が見える。

 四ツ谷あたりから真っすぐ続く甲州街道を二人は歩いていた。目指すは高尾山薬王院である。将軍命令で、前夜の呪咀の術者を捕らえに行くところであった。下状はあるため、いくら高尾山でも拒否することはできない。そして、呪咀に失敗した術者は術が返って悶絶しているはずなので、高尾山から動けてはいないはずだ。こんなところをのんびり歩いていても、まったく問題はないわけである。

 急ぐのであれば、おそらく志之助のことだから、烏天狗でも蛟でも呼びだして、高尾山までひとっ飛びしているはずである。それをのんびり歩いているのだから、どうやら二人とも本気で捕らえる気はないらしい。そして、のんびりしてこいなどと言った将軍家斉も、本気で捕らえる気はないようであった。

 術者を捕らえるのは、将軍を狙った罪として当然のことだが、この術者を捕らえてしまうと、その夜江戸城を襲った尾張藩の一族と首謀者である江戸家老、ひいては藩主までも罪に問わなくてはならないことになりかねなかった。

 将軍暗殺を狙うということは、幕府転覆を目論む大悪党ということで、考えられる刑の中でももっとも重い刑罰を課さなくてはならない。家斉としては、親戚筋にあたる尾張藩主にそんな重い刑罰を課したくないのだ。とすれば、術者を取り逃がして、証拠不十分で呪咀についてはお咎めなしといきたいところなのである。

 当然だが、呪咀とその直後の尾張藩の謀反は、切って考えられることではない。百鬼夜行に乗じて事を起こしたとすれば呪咀とも連携していたと考えるのが自然である。偶然百鬼夜行を目撃して、偶然謀反を目論んでいて、偶然それだけの人数を揃えて江戸城に攻め入ってくるとは、とてもではないが考えにくいのだ。

 そこまでわかっているから、二人は甲州街道を歩いていた。馬も使わず式神も使わず、しかも正式に将軍家に仕えているものではない二人が、捕縛者として遣わされたのには、将軍家斉の心配りが背景としてあったわけである。もちろん、老中松平定信はとんでもないと怒ったが。

「早馬を出したくないから、俺たちがこうして歩いているのだろう」

「……早く、帰ろうね、せいさん」

「ああ、そうだな」

 答えて、くっくっと笑う。突然前触れもなく笑われて、征士郎はあまり笑わない質なので、首を傾げる。笑いはしたが、征士郎はその理由を話すつもりはないらしい。かわりに志之助の腕をつかんで自分の方へ引き寄せ、乱暴な言葉がぽんぽん飛びだしてくるその唇に、乱暴に口付けた。それこそびっくりして立ち止まってしまった志之助を二歩先に行って振り返り、征士郎は満足そうに笑ってみせる。

「早く帰るということは、こういうことだぞ、しのさん」

 まるでからかうように言うので、志之助はそんな征士郎を目を丸くして見つめていたが、やがてぷっと頬を膨らませた。軽く走って征士郎に並び、さらに先に歩きだす。征士郎もすぐに横に並んだ。

「怒ったか?」

「怒った。せいさんってば、助平」

 ずかずかと早歩きで、征士郎を置いていくように歩いていく。征士郎はそんな志之助を追いかけて、どうやら本気で怒っているらしいと思い、情けない声で謝った。機嫌を直してくれるまでは何度でも謝る雰囲気だ。普通の夫婦と違い、男同士というだけあって、この二人の立場はまったく同列だ。夫婦というより、男同士の友情の成れの果てなのだから。

「しのさん。機嫌を直してくれ。この通りだ」

 なあ、と猫なで声で言われて、耐え切れなくなったらしく、志之助がぷっと吹き出してしまう。そして、大口を開けて笑いだした。

「嘘だよ。怒ってない」

 言いながらも、しばらく笑い続ける。それから、やっと笑いをこらえて、征士郎の耳元に口を寄せた。

「楽しみにしてるからね」

「……責任重大だな」

 耳まで真っ赤にして、征士郎はそう答えた。やっぱり、この二人の力関係は、どんな意味においても志之助が強いらしい。





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