参の6




 バンッ! まるでパンパンに膨らんだ飛行船が一気に破裂したような、とてつもなく大きな音が彼らの鼓膜に破られるかという勢いで叩きつけられる。江戸時代のこの日本では、どうやっても聞くことができない音で、理性で押さえ付けてもびくっと身体が勝手に震える。

 鼓膜の振動で物音が聞きにくい状態の中、征士郎の目はとんでもない速さでつっこんでくる黒い影を見た。反射的に刀を振る。目測をあやまたず、刃が黒い影に叩きつけられる。が、あまりの速さで飛んできたものにぶつかったおかげで、後ろに弾き返された。飛ばされないように足で踏張り、押される力に対抗して押し返し。

 黒い影は征士郎の刃の先で止まった。止まったわけではなく、向こうから押される力と征士郎が押し返す力がその場所で均衡しているのだ。

 しかし、そのままでは平行線で、疲れる人間の方が先にやられてしまう。遅ればせながら紅寿の脇差サイズの刀が突きさされるが、それでも一瞬後退しただけでびくともしない。

 それは、恐ろしい形相をした、まるで黒い仁王だった。身体全体で、自分を押さえ付ける刀には見向きもせず、家斉に襲いかかろうとしている。当然、それが本物の仁王ならば、征士郎一人で受けとめられたはずがない。

『志之助……』

 紅麟が不安げな声をあげる。すっと立ち上がり魔法陣の前に突き立てた刀を手に取った志之助を見上げ、家斉にしがみついたまま。家斉はその紅麟を抱き締め、懸命に目をつぶる。志之助はそんな余裕などないこの状況で、ゆっくりと手にした刀を持ち上げ、正面から向かい合った呪咀の念に向ける。そして、伏せていた目をあげた。静かに落ち着いた目を。

「主人のもとへ帰れ。お前にこの者を殺すことはできない」

 宣言されると同時に、押してくる力がかすかに弱まった。征士郎が一歩前に出る。紅寿の刀は引かれたせいで呪咀の念から抜けてしまった。志之助はなおも穏やかな目をして呪咀を見つめる。

「消えろ」

 言われた瞬間、まるで砂にでもなってしまったようにさらっと崩れ、跡形もなく散り去った。押していた力がなくなって、征士郎が前のめりに倒れる。へなへなと志之助もそこに座り込んだ。紅寿は倒れはしなかったものの、刀を取り落とし、それを持っていた手の手首を押さえて苦しい顔をしている。

「……終わったのか?」

 恐る恐る目を開けた家斉が、どう見ても戦争後という彼らの様子を見て、まだ不安が残る声をかける。紅麟は一部始終を見ていたはずだが、まだ家斉にしがみついたままだ。

『まだじゃ、国主。陣を出るでないぞ』

 きつく言って紅麟はとりあえず手を離し、家斉の膝に座りなおす。荒い息をつきながら、征士郎が起き上がった。足をだらんと伸ばして座り込み、天井を見上げる。志之助は精も根も尽き果てたかのように、ぼんやりと前を見つめていた。征士郎がようやくまわりを見回し、紅寿の異変に気づく。

「おい、竹中殿。どうした」

「……手、が……」

 つかんだ手先が大きく震え、身体もまた震えている。征士郎が声を上げたことで、紅麟も気づいたらしい。軽く眉を寄せた。征士郎が志之助のもとへ四つんばいで近寄り、その腕を揺さ振る。

「しのさん。しっかりしろ。竹中殿がおかしいぞ」

「……え?」

 ぼやーっと何もない宙を見つめていた志之助の焦点がだんだん合っていき、征士郎を見やった。征士郎はその視線の先を促すように紅寿に向ける。まだぼんやりした感じを残したまま紅寿に目をやった志之助は、その異常事態に気づいて、途端に頭をフル稼働させはじめた。あわてて紅寿に近寄る。

「……竹中殿、半分疑ったでしょう?」

 志之助にしたがって紅寿に近づいた征士郎が、何のことだと眉を寄せる。紅寿は少々後ろめたかったようで外方を向いた。志之助が深く溜息をつく。

「良かった、かかった呪咀がこの程度で。ちょっと待って、追っ払うから」

『放っておいても治るわ、その程度。志之助が手をかけてやることはない』

 少し怒っているらしい紅麟がそう言った。そういうわけにもいかないだろう、と征士郎が溜息混じりに紅麟を見やる。紅麟は肩をすくめただけだった。志之助はそのやりとりを横にして、呪咀をかぶった紅寿の手に向かって、しっしっと手を振る。呪文も言わなければ呪符もなく、印も結ばない。

 そこへ、誰かが走っているらしく、どかどかという足音が近づいてきた。隣の間へ続く襖の手前で足音が止まり、声がする。

「上様。敵襲です。安全な場所へお隠れください」

「中村です、上様。失礼します」

 家斉の返事も待たず、いきなり襖が開かれる。焦った表情の勝太郎が立っていて、その足元に若武者が膝を立てている。何事だ、と答える家斉は、紅麟を軽く抱き締めた。平静を装っていても、この急展開には身構えざるを得ないらしい。

「上様はここをお動きになりませぬよう。征士郎、志之助殿、上様を頼むぞ」

「何奴じゃ、中村」

 かなり冷静な声を出した家斉を見上げ、紅麟は意外そうな顔をする。こんなに短時間に落ち着けるとは思わなかったらしい。弟とその相棒にも見つめられ、勝太郎はそこに膝をついた。

「まだはっきりとはしませんが、おそらく尾張藩の者どもかと」

「おわ……っ」

 尾張藩といえば、この将軍家の親戚筋である尾張徳川家が支配する土地ではないか。紅麟を抜いた全員が絶句した。

 紅麟は志之助までも固まってしまったのに驚いていた。志之助が他人事でそこまで驚くとは思っていなかったらしい。確かに志之助が驚くといったら自分の技が通じなかったときか征士郎に関することだけだから、間違ってはいない。それだけ驚くべきことだったのである。

 お家騒動どころの話ではない。これが家斉本人を狙ったものなら、つまりは謀反である。家斉から将軍職を奪い取りたいと、それだけの野望がなければこんな無謀はするまい。

「……倹約令に対する不満が高じたか」

「おそらくは」

 勝太郎の肯定に、家斉はしばらく黙り込んだが、やがて頷いた。

「わかった。全員ひっ捕らえろ。できれば生きて捕らえるように」

「はっ」

 短く答えて、勝太郎は立ち上がり襖の向こうへ出ていく。征士郎はややあって志之助を見やった。志之助もこっくり頷く。それだけで通じてしまう間柄だ。

「紅麟、上様を頼むよ」

『はいな。お任せあれ』

「それから、竹中殿も。ここからお離れにならぬよう、お願いします」

「それは承知したが、あなたがたは?」

 問われて、征士郎は外の方へ顎をしゃくった。そういうことです、と志之助も頷く。それから、二人揃って笑ってみせた。

「やっぱりこう騒ぎが身の回りで起こっていると、首を突っ込まずにはいられない質でして」

 まだ持っていた刀を古い畳に突き立てて、志之助は庭の方を振り返る。征士郎は抜き身のままであった愛刀を鞘に戻し、腰に差し込んで、庭に向かって歩きだした。失礼します、と家斉に頭を下げて、志之助も後を追う。残された家斉と紅寿は、ただ顔を見合わせるしかなかった。どう考えても、物好きなとしか言いようのない二人である。





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