神田明神下まで、志之助の交通手段はもっぱら徒歩である。お堀にかかる橋ももちろん歩く。
 見張りの番人とも顔見知りで、会釈をして通り過ぎれば頭を下げ返された。

 聞かされた話は一刻を争う事態を志之助に知らせていたが、志之助自身に慌てる様子は全くない。

 そもそも今日は旦那が出稽古に出かけていて夕方まで帰って来ない予定なのだ。
 すぐ近くでのことであれば志之助一人で出かけて行って事前調査くらいはできるのだが、今回は粕壁宿ということでさすがに遠い。

 過去に一人で行動して痛い目を見たことのある志之助は、そのたびに旦那に叱られて懲りたこともあって、必ず相方と同伴することにしていた。
 いつも優しい旦那も志之助の無茶する性格はすっかりお見通しで、最近では多少の無理も叱られない分余計に自省したわけだ。

 仕方がないので志之助は式神に留守番をさせている自分の店に帰ることにした。

 店には5歳と3歳の男の子が母に連れられて来ていた。

 店先に現れた店主をまず出迎えたのは、二又尻尾の三毛猫。
 滅多に動かない猫を追って子供たちも飛び出してくる。

「しのおじちゃま、お帰りなさい」

「おーちゃ、おかえちゃい」

 まだ舌足らずながらそろそろ行儀も覚えた兄の挨拶を真似してちびっこがおませに言葉を紡ぐ。
 二人が左右から抱きついてくるのを抱き寄せると、母も迎えに現れた。

「あらあら、二人ともしのおじさま大好きねぇ」

 その女性、おつねの足元で、三毛猫が猫の喉ではありえない笑い方を披露する。
 この猫が化け猫であることは全員が承知しているから、一人として驚く様子もなく、弟に至っては猫を気に入っているようで駆け寄っていって素早く器用に抱き上げた。
 子供の手から逃げ損ねた猫がわたわたと暴れている。
 爪を立てないでくれるのは、猫の方でもこの少年を気に入っているからに他ならない。

『これ、信介。痛いではないか。放せっ』

「にゃんこ〜。たいの〜?」

『痛いと言うておろう。手をはな……うにゃっ!?』

 手を放せと言い切る前に信介少年が突然猫を抱いていた手を開放する。
 が、猫を地に下すのを忘れたため、その胸の高さから落とされてしまった。

 もちろんそこは猫なので、特に危なげもなく着地するのだが。犯人に抗議も忘れない。

『信介っ! いきなり落としたら危なかろうっ』

「ちゃんと地面に下さなくちゃダメだよ、信」

 兄の松之丞にも咎められて、猫が怒った理由を悟ったらしい。信介は素直に猫に謝った。

 それにしても、何者かに追われてこの店に逃げ込んだだけのはずの化け猫は意外に子守り向きだ。
 適度な遊び相手になっているし、古風ながらまともに喋る分躾も任せられる。

 子供たちが化け猫に遊んでもらっている上空では、大人たちが大人の会話をしていた。

「今日はお城だったの?」

「仕事をもらってきましたよ。大仕事になりそう」

 中村家の嫁同士、付き合いも8年になれば遠慮はない。
 最初の頃は双方ともに相手を尊重して丁寧に話していた二人は、すでに気心の知れた仲だ。

 志之助の口から出る大仕事はたいていが本当に大仕事だ。
 これまでの8年間で国を脅かす数々の怪事件をいとも簡単に解決してきた彼が、大仕事と発言したのはたったの数回。
 いずれも、多大な被害をどこかにもたらした大事件だった。

 したがって、おつねは実に心配そうな表情になった。

「いくらお国のためとはいえ、危ないことはやめてね。ちゃんと帰ってきて」

「大丈夫。命に危険のあるようなことなら逃げて帰ってくるよ」

 命の危険云々と話しているのを耳にして、猫とじゃれていた二人の子供も大人たちを見上げる。
 生まれた時からの付き合いだから、志之助の店以外の仕事のことももちろん知っていて、だから余計に不安そうだ。危険な仕事だと理解しているらしい。

 ちょうどそこへ、店先に客の姿が現れる。近くに住む主婦で、いつもの買い物らしい。

「こんにちは、いらっしゃいませ」

 心配そうなおつね母子ににこりと笑い、志之助は客の応対に出て行った。
 志之助が大仕事だと言うような事態である。志之助の旦那様である征士郎もおつねの旦那様である勝太郎もいないところではまだ話せないのだろう。
 心得ていて、おつねも息子たちを見下ろした。

「しのおじさまのお手伝い、していらっしゃい」

「はい、母上」

 町娘のおつねに育てられたわりに行儀をわきまえている上の子が返事をすると、下の子も真似をして「あい」と返事をし、そろって志之助を追いかけて行った。

 店の外を照らす明かりはすでに橙色で、夕刻を告げている。

「さ、私も夕食の支度をしなくちゃ」

 自宅よりも店にいる時間の方が長いようなおつねは、もともとこの並びにある長屋に一人暮らしだったこともあって自宅より使い慣れた竃に下りて行った。

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