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征夷大将軍の茶飲み友達になって、すでに8年の月日が流れていた。
若かった将軍家斉もずいぶんと貫禄が付き、その代わり松平定信は失脚して権力から遠ざかり、世の中はまた歴職の大名たちが我が物顔で浪費を重ねる腐敗社会に戻っていた。
財源も乏しいのだからもう少し節制してくれと懇願する将軍の言葉もどこ吹く風、松平失脚とともに発言力を失った家斉はため息ひとつで放っておいている。
国の財政のことなどとりあえずどうでも良い志之助は、家斉の零す愚痴をふんふんと聞いているだけだったりする。
陰陽師として手が出せるなら援助は惜しまない心積もりではあるが、政治に口を出すだけの権利も知識もない。
実際のところ、家斉の方でも愚痴を黙って聞いてくれる相手との認識しかなかった。うっかり重要事項を漏らしてしまっても彼なら口外しないと信じているわけだ。
一通り大名たちへの愚痴をぶちまけた家斉は、スッキリしたのか、茶を一口含み満足の息を吐き出した。
「上様も大変そうですね」
「何が大変って、金銭感覚の鈍いお坊ちゃんがそのまま大人になって家督を継いで要職に就くものだから、庶民感覚が全く無いってところだ。米がないなら饅頭を食えば良いんだとさ」
「江戸っ子が怒鳴り込んで来そうな暴言ですね。誰なんですか? その非常識なお方」
「うちの若年寄。ちなみに、俺より年上だ」
「金持ち藩のボンボンなんでしょう?」
「父親は財政再建してみせたやり手なんだがなぁ」
ズズッと茶を啜る。
一緒に高級茶葉出しの絶品玉露煎茶をもらって舌鼓を打ち、志之助はクスクスと笑った。
志之助にとっては所詮他人事である。笑い話でしかないのだ。
連日の照りつけてくる日差しに熱せられて蒸し暑い屋敷は、風を通すために襖や障子を全開にしていて、かわりに御簾が下げられていた。
竹ひごの隙間から覗く庭は強い光に灼かれて真っ白に見える。
すっかり温くなった茶を飲み干して、家斉がぼやんと外に目をやる。
「毎日暑いな」
「そうですね。店の外に打ち水もしますが、あっという間に乾いてしまいますよ」
「連日こう暑いと冬が恋しい」
「冬になればなったで、夏が恋しくなるのでしょう?」
「はは。まったくな」
笑って頷いた家斉に志之助もにこりと微笑むと、ついと自分の斜め後ろの畳を見下ろした。
「橘。ちょっと扇いでくれる?」
決して空気を冷やせとは命じない。
手持ちの式神を使えば冷たい風を送ることは容易いだろうに、団扇で扇ぐ程度の命令しかしなかった。
それは、心地良い冷たさに身体を甘やかしてしまうとその後の暑さに対応しきれずバテてしまうせいだ。
志之助自身なら自分の式神なのだからいつでも自由自在だが、家斉はそういうわけにいかないのだから。
呼ばれた橘は、紫陽花柄の団扇を手に現れるとそよ風を起こすようにゆっくり優しく扇ぎはじめた。
風に当たって、いや助かるねぇ、などと満足そうに笑顔を見せた家斉は、しばらく涼んだ後、ぽんと突然手を叩いた。
「そうそう、忘れていた。今日は志之助に相談があるのだ」
「私にと仰いますと、また何か不可思議な事件でも?」
「事件ではないが、実に不思議なのだ。この暑いのに、連日の豪雨で寒くていられない地域があってな」
豪雨?と志之助は首を傾げ、そうだと家斉は頷いた。
夏といえば、日本では台風というものがある。その雨と風は凄まじいもので、通り抜けるまでの2、3日は雨風ともに止まない。
だが、それでも連日というほどではないし、寒くもならないはず。
「連日というと?」
「梅雨の時期から毎日だそうだ。雨の上がる時もあるが、雲は取れないらしい。山が崩れ、堤が破れ、家の瓦も流され落ちるほどという。床下への浸水も多いらしいのだ。このままでは人が住めなくなると陳情が上がってきた」
あまりに異常な事態に、志之助の表情がどんどん強張っていった。
志之助の表情につられて家斉もだいぶ深刻な表情に変わる。
「どこでです?」
「粕壁宿」
「すぐそこじゃないですか。その近さでそんなに天候が違うのはおかしいですね。作為的なものを感じます」
「やはりそうなのか? いや、ことは天気だからな。どう考えたら良いものかと困っておったのだ。そなたに任せて良いか?」
「はい。お引き受けいたします」
「頼むぞ」
若いころは、不可思議現象を単純に面白がって首を突っ込みたがっていた家斉も、長い付き合いの中で志之助に任せておけば安心だと思えるまで意識が変化していた。
手に負えないと納得したせいもあるのだろう。
志之助に引き受けてもらえてほっとした家斉は、茶のかわりを淹れさせるため、高らかに手を叩いた。
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