宣誓



(2007年秋限定SS)



 神田明神下。
 二階長屋の通りっ傍に面した部屋の二階に、征士郎はいた。

 階下の小間物屋は、征士郎にとっては恋人の養子にあたる、兄の次男が継いでいる。
 武士の子供が町人の養子になるなど、前代未聞ではないかとも思われるが、そこはそれ、その町人自身が将軍その人に信頼されている特別な人物であるのだから、誰も文句は言えなかった。
 どうやら、元来商売上手な性質らしく、先代の時代はその店主の人柄が客を呼び込んでいたが、現在は店そのものの評価が高い。

 白髪の髷が似合わない武人らしい引き締まった体格を、現在は持て余したように壁に寄りかからせて、征士郎は空を見上げていた。
 いつも隣に寄り添っていた、とても年上には見えない美しい人は、すでにこの世にいない。
 その死はあまりに突然で、明日で四十九日というこの時期になってようやく、実感が湧いてくるくらいだった。

「……あぁ。もういないんだな……」

 そばにいることが当たり前になっていた存在がそばにないことに、まだ慣れない。
 左隣のぬくもりを探して部屋を見回して、肩を落として空を見上げる。そんな仕草を、いつまでも繰り返していた。
 世間から見れば、よく生きた方なのだろう。
 出会ったその年から数えて四十年。六十六才だった。




 それは、唐突にやってきた。

 寄る年波には勝てず、隠居して中村の家で征士郎と共に暮らしていた志之助は、それでも毎日店にやってきては、階段下の隅の方で猫又のミケを膝に抱き、常連さんの相手をしていた。
 その日もそうだった。

 その日は、征士郎は兄の三男が開いた剣術道場で指南役を務めていて、夕方になって志之助を迎えに店に赴いた。
 そこで、倒れて二階に寝かされていた志之助を見つけたのだ。

 朝までは元気だった志之助の急変に、店先の甥は落ち着かない様子だった。
 風邪ひとつ引かない元気な人が突然倒れたのだから、心配にもなる。

 征士郎の気配に気づいたのか、辛そうにしていた志之助が目を開けて、目を細めるようにして笑った。安心した表情だった。

「……おかえりなさい、せいさん」

「あぁ。どうしたのだ? どこが辛い?」

「頭がね、割れるように痛いんだ。気を抜くと、意識を持ってかれる。巫子の血が呼び寄せてるみたいで、その辺に雑霊がうようよしてるし。困ったね」

 自分の辛さだけを耐えれば良い一般人と違い、放っておけばそこらの浮遊霊だろうが神仏だろうがかまわずその身に降ろしてしまう体質が、体調の不良によって暴走している。
 楽にしてあげたくとも、その体質だけは征士郎にも如何ともしがたい。

「とりあえず、ここを出よう。元気な時ならばいざ知らず、ここはそもそもが溜まりやすい土地なのだろう? 拡散する場所か神聖な場所か……明神様などどうだ?」

「……ん。でも、中村のお屋敷が良いよ。みんなと一緒にいたいんだ」

「しかし、雑霊は寄って来よう? あそことて、あまり良い地場ではない」

「ん。ダキニ様に守護をお願いしたから大丈夫。今まで身体を借りた礼だ、って快く引き受けてくださったよ」

 なるほど、それで自我を保っていられるのか、とあっさり納得し、征士郎は迷わずその背を志之助に向けた。
 当然、志之助が六十六才ということは、征士郎は六十三才になる。
 志之助が痩せ気味の軽い身体だとはいえ、老骨に人一人分はさすがに厳しいようで、志之助を背にゆすりあげて精一杯の様子だった。

 ギシリ、と音を立てて階段をゆっくり下りてくる音に気づき、甥である中村屋店主、信介が見上げてきた。
 それから、少し慌てて手伝いに手を差し出す。

「あまり無理をなさらず。屋敷から伴之助を呼びますよ」

「いや、大丈夫だ。病人にこの場所はあまり良くない。長居は出来ん」

 実年齢や見た目はともかく、そもそも身体を鍛えることを今まで一日たりとも怠らなかった征士郎には、衰えたなりの力強さがある。
 大丈夫だ、とその征士郎に断言されると、それ以上の気遣いも出来ず、困ったようにその背に負ぶさった養父を見やった。

 頭痛は一向に良くならないようで、辛そうに征士郎の背に身を寄せている志之助が、弱弱しくもはっきりと微笑んだ。
 その優しい眼差しは、仏をすら思わせる慈愛に満ちていて、信介は心底この養父を信頼しているのだ。

「信介も、今日は店を早々にしまって、屋敷においで」

 信介の申し出を助けてくれるかと期待したのだが、志之助も本当に一刻も早くこの場を去りたいらしい。
 そして、信介にもそばにいて欲しいらしかった。
 ならば、信介に否やを言う選択肢などない。
 はい、と深く頷いて、二人を見送った。

 神田明神下から神田錦町にある中村家の屋敷まで、歩けばだいぶ長い道のりだ。
 若いころならあっという間だったが、今はちょっとした散歩コースに近い。
 その道中、極力揺らさずに歩いてくれる征士郎の背にしがみついていた志之助が、少し遠い目をして、今まで自分ひとりに抱え込んでいたらしい真実を語りだした。

「もう、十日くらい前からわかってたんだよ、ホントは」

「今日の頭痛が、か?」

「今日で、寿命。あと何刻もない」

 思わず、征士郎は立ち止まった。
 もうすでに、この妻と四十年の付き合いだ。
 大概の事では驚かなくなったと自負していたが、久しぶりに本気で驚いた。自分の中で消化するのに時間がかかる。

 それが問題発言であることは、自分自身で理解していたらしい。
 志之助は、征士郎が再び反応してくるまで、気長に待っていた。
 相変わらず痛みが引かないようで、眉間の皺は深いまま。

 やがて、征士郎は深くため息をついた。

「だから……」

「そういうことはもっと早くに言え、でしょ?」

「そうだ」

 先回りして問い返す志之助に、征士郎は強く肯定した。
 結婚の誓いを立てた当時は、頻繁に言い聞かせた言葉だったが、ここ十何年は使わなかった台詞。
 信頼しあっていたし、志之助が征士郎に秘密にしなければならないほど重大な場面に、出会わなくなったというのもある。
 無茶をするのはなくならなくとも、あの時のあれに比べれば、という比較対象が、秘密にする必要性をなくしていたのだ。

 今回は、おそらく志之助が持つ最後の秘密だった。

「……もう、思い残すことはないんだな」

「どうしてそう思うの?」

「その『十日くらい前から』を思い返しても、しのさんに変わった様子は見られなかった。死ぬ前にしておくべきことが、ないんだろう?」

「うん。でも、思い残すことは、あるよ」

 背中にしがみつき、握り締めていた征士郎の襟首あたりをぎゅっと握り締め、志之助は征士郎の背に頬を当てた。
 そっと目を閉じ、征士郎の匂いに意識を傾ける。

「せいさんを、置いて逝ってしまう」

「……あぁ。そうだな」

「ごめんね。先に逝くよ」

「少し、そこらで待っていてくれ。長くは待たせない」

「うん」

 本来ならば、成仏することを願うのが、相手のためというものだ。
 だが、何しろ相手は志之助。待っていろ、といえば、本当に待っていてくれそうな人だ。
 だからこそ、彼にその能力を活用してもらって、死後の世界でも共にありたいと願うのも、それは有り得ることだろうと思うのだ。

 そして、それを願われた志之助の方も、当然のことのように頷いた。
 それこそ、たとえこうして請われなくとも、自分から恋人の死までそばで待っているつもりであったように。

「ねぇ、せいさん。最期の我が儘を聞いてくれる?」

「あぁ。何だ?」

「最期の一呼吸まで、ずっと貴方に抱かれていたい」

「それこそ、お前に請われなくともそうするさ。最期の一呼吸まで、俺のものだ。けして手放さん」

 今更言うまでもない。四十年の時を共に歩み、喜怒哀楽を共にした夫婦である。今更切って切れるものではないし、それなりの執着もある。
 最期のその一瞬まで自分が看取るのは、夫としての誇りでもあるのだ。
 志之助を背負ったまま、再び歩き出した征士郎に、志之助は幸せそうに笑みを浮かべ、そっと瞼を閉じた。




 はたして、約束は果たされた。
 細くなっていく呼吸の一つ一つをそばで見守り、結局細く身軽なままだった身体を両の腕で抱き締め、最期のその一呼吸を、唇で吸い取って息を分け与え。

 最期に征士郎の唇を通して肺が吸い上げた息は、呼気として吐き出されることはついになかった。

 その後。
 そばで看取ってくれた兄夫婦とその子供や孫たちが涙で別れを惜しむ中、まるで魂まで志之助と一緒に逝ってしまったかのようにぼんやりとしてしまった征士郎は、涙を流すことはなく、四十九日を迎えた。

 自他共に認める半身を失ったのだ。征士郎に立ち直ることを強要する人間は、一人も存在しなかった。
 関係の深さ如何に関わらず、皆が征士郎をそっと見守ってくれていたのだ。
 きっと、せめて四十九日までは、という意識が、多くの人のうちにはあったのだろう。

 年相応に見えないほど若々しかった征士郎だったが、志之助を失ってからは一気に老け込んでしまったようで、長く夫婦生活を営んだ明神下の店の二階で、ただぼんやりと日々を過ごした。

 きっと、志之助が見たら、せいさんってば何をそんな呆けてるのさ、などと言って笑い飛ばして見せたことだろう。背の一つも叩いて見せただろう。
 わかってはいる。だが、どうにも気力が湧かないのだ。

 何しろ、志之助を守る、それが征士郎が自覚していた自らの存在意義だった。
 その守護対象を失ったのだ。生きる張り合いが、まったくない。

「……しのさんと出会う前は、どうして生きていたっけな……」

 そんな化石のような昔の話など、覚えているはずもなく。
 辿る記憶があっという間に途切れる。まったく、思い至らない。
 そもそも、征士郎の思い出の大半に、志之助の姿があるのだから。

「なぁ、しのさん。俺はもう、生きていける自信がないぞ」

 辿った思い出にいた、穏やかな表情で店先に座る志之助の幻影に、征士郎は声をかけた。
 自分も連れて行ってくれ、と手を伸ばす。

 けして、自らの命を絶ってはいけない。志之助のそばに再び並び立つには、天寿を全うするよりほかにないのだから。
 だが、志之助と違い、自分の未来など見えない征士郎だ。
 何時になれば、この心臓が止まるのか、まったく読めない。

「連れて行っては、くれぬのだろうな……」

『だから、心残りだって言ったじゃない』

「あぁ。俺が甘かったよ」

『ふふ。せいさんってば素直なんだから』

 幻だと、わかっている。だが、目の前で笑っている志之助が、本当にそこにいる気がするのだ。

「愛しているよ、志之助」

 何度も繰り返し囁いた言葉。それは、その存在を失った今でも、現在進行形だ。

「未来永劫、ずっとお前のそばに……」

『生まれ変わっても?』

「あぁ。何度生まれ変わろうとも」

『嬉しい』

 くすくすと声を立てて笑う志之助の幻に目を奪われ、ぼんやりと過ごしていた日々の名残に身体の力も奪われる。
 引っ張られるように失っていく意識にしたがって目を閉じる。不思議と、満ち足りた気分だった。




 店じまいを終えて、屋敷へ戻る前に叔父を呼びに二階へ上がった信介は、ほんのり微笑んだ表情のまま事切れている征士郎を発見し、迎えにやってきた養父の幻影を見て、静かに両の手を合わせたのだった。





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