Sweet Chocolate
(2006年バレンタイン限定SS)
二月十四日、午前十一時。
喫茶店に、顔見知りの姿が現れた。
真壁勝太郎の妻、常子だった。
手にはピクニックに持っていくようなバスケットが一つ。
店内にはまだ客の姿はなかった。普段から午前中は暇なのだ。
志之武はその時、呪術に使う短冊を作っていた。といっても、特注の和紙をちょうどいいサイズに切り分けているだけなのだが。
征士はその時、マンションの屋上にいて店内にはいなかった。
「あら、志之武君だけ?」
「午前中はいつも僕だけですよ。いらっしゃい。珍しいですね」
「まぁ、志之武君。今日は何の日?」
女が珍しく現れるのにちょうどいい口実のある日にそのとぼけた反応をするから、常子はくすくすと楽しそうに笑った。
「プレゼントよ。さすがに二人じゃ多いと思うから、お店にでも出してあげて」
言いながら、机の上に置いたバスケットの中身は、チョコレートケーキだった。
一緒にチョコレートを混ぜ込んだ生クリームが添えられていて、切り分けたケーキにクリームを乗せて食べるように作られているらしいが。
「良いんですか? お店に出してしまって」
「法律に違反しないのであればね。毒は入ってないから安心してちょうだい」
「いえ、そんなこと疑ってませんし、食べなくてもそのくらいわかりますけどね」
ふざけてそんな風に言うから、志之武もまた楽しそうに笑って返す。
受け取ったバスケットを手に、カウンターへ入っていった。
「ゆっくりしていかれます? お茶でも淹れますよ」
「うーん、ごめんなさいね。だんなが外で待ってるのよ。これを持ってくるのに車を出してもらったんだけど、このあたりって駐車場がないでしょう? 店の前に路駐してるのよ」
じゃあ、またね、と手を振って、常子はあっさり帰っていってしまった。
入れ替わりに征士が戻ってくる。
「あれ? どうしたの、そのバスケット」
「常子さんから差し入れ。お店にどうぞって。チョコレートケーキだよ」
ふうん、とちょっと驚いた様子で相槌を打った征士は、もしかしたら、なぜチョコレートケーキなのか、まではどうやらわかっていないのかもしれない。
「あれ? わかんなかった?」
「……何が?」
「今日は何の日でしょうか?」
「あぁ、バレンタインか。……ごめん。忘れてた。何も用意してないや」
「じゃあ、ホワイトデーを楽しみにしてよっと」
ケーキなのだから冷蔵庫に入れておくべきだろうが、志之武はそのバスケットの中身を切り分けてそのままバスケットに戻し、バスケットそのものに呪文をかけた。
それは、どうやら冷気の呪文であるらしい。バスケットそのものが冷蔵庫に入れたように冷えてしまった。
夏には気持ちがいいだろうが、今は少し寒く、あまり近くに寄りたくない感じだ。
ついでに、そのバスケットを目立つようにカウンターの上に乗せ、今日のサービス品として張り紙を貼り付けた。
「僕たちはお昼ご飯にもらっちゃおうね」
「そうだな。うまそうだ」
手を洗ってエプロンをつけて。いつものようにカウンターに腰を下ろす。
今日もまた、普通の一日が始まる。
店じまい寸前の午後七時。
これまた珍しいお客さんが現れた。皇居を挟んで向こう側に住んでいる、土御門家の当主、麟子だ。
ついでに、今度は旦那連れだった。
「あ、おりんさん、師匠。いらっしゃい」
先に二人を見つけたのは、征士だった。
近所の奥様方は皆、夕飯の支度のために夕方には帰っていき、その後現れる高校生たちも帰ってしまったくらいの時間帯で、店内には人気がない。
空になったバスケットが、カウンターに置きっぱなしになっていた。
さすがに冷気の呪文は解かれていたが、籐製のバスケットはまだ冷たいままだ。
それに、気づいたらしい。あら、と麟子は声を上げた。
「先を越されてしまったみたいねぇ。私もチョコレートケーキなのだけれど。食後にでも二人で食べてね。二人分だけ切り分けて持ってきたから」
常子にもらったのはココア味のパウンドケーキ風だったが、こちらはチョコレートを練りこんで焼き上げた上にチョコレートコーティングされた、甘そうなガトーショコラで。
チョコレートにもいろいろあるんだなぁ、とあまり甘いものには興味のない征士は感心したようだ。
「ところで、これ、ホールですよね? 残りは本家で?」
「うぅん。この人の胃の中」
この人の、と指差したのは隣にいる松安で。
悪びれた様子もない飄々とした態度は相変わらずだ。
「最初はね、全部食べちゃいそうだったのよ。だからね、二切れだけ、救い出して持ってきたの。本家にはチョコクッキー置いてきたから大丈夫よ」
どうやら、手作りケーキは恋人とこの二人だけに振舞われる貴重品らしい。
ご馳走様です、と二人は揃って頭を下げた。
今日二つめの手作りケーキ。それだけ、作ってくれた双方から大事に思われていることが実感できる。ありがたいことだ。
こちらもまた、このケーキを持ってきただけの用事だったらしい。
これから上野でディナーなのよ、と嬉しそうに言って、麟子も松安と一緒に早々に帰っていった。
仲の良い二人を見送って、志之武は征士と顔を見合わせる。
「もう閉店にしちゃおうか」
「お客もいないしな。先に戻って夕飯作ってるよ」
「うん。僕も店片付けたらすぐ戻る」
ずっと弁当というわけにもいかず、最近は分担して炊事をこなしている二人だ。
今日の料理当番は征士の番で、麟子からもらったケーキ箱を手に、先に店を出て行った。
残された志之武が、使い終えた食器の洗い物を始める。
昔も今も、そのくらい式神に任せてしまえば、と思うようなことでも自分でやるのが志之武流だ。
手が足りなければ頼るけれど、自分で出来ることは自分でやる方針であるらしい。
手伝わせれば良いのに、と式神本人たちに言われているくらいなのだ。
冷蔵庫に隠していた小さな紙袋を手に部屋に戻ると、台所から良い匂いが漂ってきた。
今日のメニューは豚のしょうが焼き。市販のたれにつけて焼くだけの簡単メニューだ。
台所に顔を出して、ただいま、と律儀に挨拶すれば、こちらも律儀に、おかえり、と返す。
それから、志之武の手に下げられた紙袋に気付いた。
「それ、何?」
「僕からの、バレンタインチョコ」
まったくもったいぶる様子もなく、はい、と征士に差し出す。
受け取って中を覗いて、征士は首を傾げた。
そこにあったのは、チューブ入りの練りチョコレートなのだが。
もちろん、本来はそのまま食べるものではなく、ケーキやクッキーに飾りつけるためのものである。
それを、チューブのまま渡されたのが、実に不思議だった。
不思議そうな表情の征士の腕に自分の腕を絡め、志之武はその耳元に、恥ずかしそうに囁いた。
「それを、僕に塗って、僕ごと食べて」
「そういうことか!」
気付いたと同時に、思わず叫んでしまった。
征士の剣を振る逞しい肩に顔をうずめて恥ずかしがっている志之武を、ぎゅうっと抱きしめて。
「今日は寝られると思うなよ」
「喜んでくれた?」
「もう、しのさんってば、大胆なんだからっ」
感極まって、ほとんど無理やり、吸い尽くしそうな口付けをした。
志之武も、すがり付いてそれに答える。うっとりと甘い息を吐き出して。
ふと、志之武がぴくりと肩を震わせた。
「せいさん。何か、焦げ臭い」
「あ、やべっ」
大慌てで志之武を手放してガスを止めたが、時すでに遅し。
しょうが焼きは、炭と化していた。
「……せいさ〜ん?」
「ごめん……」
せっかくの幸せが、あっという間に消え失せてしまった。
恨めしそうな志之武の声に、肩を落として申し訳なさそうに謝る征士。
あまりにもしょんぼりするから、それがなんだか可愛くて、志之武は怒りきれず、思わず噴出してしまった。
「もうっ。バツとして、お弁当、よろしく」
「はーい」
志之武の雷を恐れたか、財布を掴んでそそくさと征士は逃げるように部屋を出て行く。
エプロンも付けっぱなしで、コートも着忘れて。
後には、大笑いする志之武が残されていた。
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