おいでませ!精霊界 1




 そこは、住人たちから「精霊界」と呼ばれている世界。ここに、志之助と式神契約をしていた高位神獣たちが住んでいる。

 頂点の群青から地平の紅まで虹色に輝く空に、綿飴のごとき光沢をまとったふわふわの雲、ところどころ雲の上に溜まった水溜りから中空へ流れ落ちている滝は空の途中で文字通り霧散し地上に届かない。
 地上はヒスイやメノウのような輝石を主として構成され、生き生きと葉を広げる草花に覆われた草原や、反対にごつごつとした岩場、背の高い木々に覆われた深い森など、多様な表情を点在させていた。

 碧の鱗に覆われた蛟が棲むのは、底まで透き通って見通せる深い淵だった。それを縄張りとしていた者は元々なく、そもそもここは精霊界でも生き物の寄り付かない僻地であるため客もほとんどない。

 この淵を訪れる客は限られている。
 五十八匹の烏天狗か、精霊界の管理人の一人に数えられる実力者である蒼龍、以前から蒼龍に可愛がられていたまだ幼い神獣である紅麒麟の紅麟と鳳凰の鳳佳。
 いずれもこの世界では上から数えられる実力者で、それだけに唯一異端の存在である蛟に対する風当たりも強いのだが、これを嫌っての隠遁生活であるから今のところ大した問題に発展したことはない。

 その日、淵に現れたのは蒼龍だった。何かとストレスの多い責任ある立場であるから、景色がよく気心の知れた相手が棲むこの淵は鬱屈の解消に一役買っているようだ。

 その蒼龍に、蛟はその長大な身体を丸めた格好のまま、まるで独り言のように話しかけた。一方の蒼龍は人の姿でそこに佇んでそっと聞き耳を立てる。

「先日、淵に帝釈天が訪ねて来られた」

「ほう。天狗たちの件でしょうか?」

「うむ。しばらくの暇乞いを愚痴られた。態度が気に入らぬと放逐するほどなのであるから人一人の寿命分程度でさしたる問題もあるまい、と言うて天の言質も取らぬまま出て行ったそうじゃ」

「それは帝釈天様の自業自得ですね」

「まったくじゃな」

 だからこそ『愚痴』なのだろう。
 そもそも帝釈天が子飼いである烏天狗に用事を言いつけること自体が非常に稀で、常時傍に詰めていなければならないような状況ではないのだ。
 仕事がない時は好きなようにしていて良いだろう、と訴えたところで、飼い主に否定の余地はない。

 烏天狗たちがこの淵を最後に訪れたのは三日前のことだった。
 彼らには珍しく有頂天で何事かと問えば、二十数年前人間界に生れ落ちたと蒼龍が知覚してからずっと探していた主人を、ようやく見つけたのだという。
 彼らにとっては古より仕えていた帝釈天よりも上位に据わる最高の主だ。見つけたからには精霊界に引っ込んでいるよりも彼のすぐ近くに侍って力になりたいと、鼻息も荒く蛟に告げて行った。

 彼の前世において四大元素の一つである水を操る能力を持っていながら低級の式と同じように彼の懐で札を媒介に宿っていた蛟もまた、それだけ近くにいたせいもあってか早く傍について助けてやりたいと思っているのだが。
 まだ時期ではないと蒼龍に諭されてこの淵に留まっているのだ。

 その相手に愚痴るとは、帝釈天も相手を見極める目がないな、と蒼龍は一人苦笑を浮かべていた。

「そうといえば、あれじゃ。あの御子らはどうしておるのじゃ?」

「えぇ。天狗たちから彼の人を見つけたと聞かされてからというもの、もぞもぞそわそわと落ち着きがなくていけません。ようやく成獣へ進化する準備も整ったというのに幼い姿に逆戻りしてしまいましたよ」

 仕方のない子らだ、と言いつつも、蒼龍もこればっかりは叱りきれないのだろう。やれやれと溜息をついて首を振るくらいが関の山だ。
 仕方がないのぅ、と蛟もまた苦笑を返している。

 淵を囲う森の木々がそよ風に揺られてさわさわと音を立て、淵に湧く水の音がこぽこぽとこれまたかすかな音で存在を主張する。話し声がなければ自然に発生する物音が心を和ませてくれた。

「して、今日は何ぞ用事でもあったかの?」

 ようやくここを訪れた理由を尋ねたのは、普段から蒼龍が何の用もなく世間話に興じるために現れているせいだ。何の用もない、という返答があるものと半ば確信しての問いかけだった。

 これに対して、蒼龍は珍しく表情を改めた。

「はい。豊河越津々神様に、折り入ってお願いがあって参りました」

「……その名は好かぬ」

「そうは言えども、貴方様の御名でしょうに」

 仲間内で最も生まれの若い、けれども普段は老成しているかのごとき振る舞いをする青年神の、珍しい拗ねた答えに、蒼龍はくすくすと笑った。
 それから、胸に手を当てて深く頭を下げた。

「この精霊界に、雨をもたらしていただきたく、お願いに参りました」

「雨? わしでなくとも水神などこの精霊界にはいくらでもおるであろうに」

「いえいえ。精霊界広しと言えども、この雨という概念のない精霊界に雨をもたらすほどの能力を持つ水神はなかなかおりません。それに、私が貴方に頼むのは他の誰に頼むよりも頼みやすいのですよ。頼まれてはいただけませんか?」

 それはつまり、気心が知れている相手だからと言いたいのだろう。なるほどそれは拒否しにくい頼み文句だ。

 けれど、蒼龍の言葉に蛟は引っかかりを覚えた。

「雨の概念がないこの世界に雨が必要であると言うたか?」

「はい。鳳佳の予知が不吉を捕らえました。西方の草原にて酷い火事があると言うのですよ」

「……あのあたりは水源がない」

「はい、その通りです。それだけに一度燃えればあっという間に広がりましょう。原因を突き止めるのは私たち管理者の務めです。けれど、燃えてしまっては我々には手が出せない。貴方の力をお借りできませんか」

 実際本当に困っているようだ。地属性であるだけに普段からどっしりと構えた蒼龍の掻き口説くような懇願にそう悟らされた。
 となれば、蛟に断る余地は残されていないのだろう。

「そなたにそのように頼まれては嫌とも言えなかろうの」

「では」

「ふむ。一つ雲をもらうが構わぬかね?」

 雲を、と言いながら空を見上げる蛟の視線を追って蒼龍も顔を上げ、虹色に輝く空に浮かぶ空の色を移した虹色の雲を目で追った。

 つまり、この世に存在する物質は姿かたちは変わろうともそのものの質量は変わらないという原則に基づき、雨の元を求めたということだ。理解すれば拒否する理由もなく、蒼龍は独断で頷いた。

「どれでも好きなものを使ってください」

「景色を変えるのも気に病まれるでの、池を持たぬそこらの千切れた雲をもらうとしよう。雨が必要な頃合に呼ぶが良い。何処なりと参じよう」

 このような僻地に隠遁している相手に対する無理を承知の願いに頷いてくれた蛟へ、蒼龍は再び深く頭を下げた。

「ありがとうございます」





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