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部屋に帰りついたとき、志之武は征士の広い背中の上で、すやすやと寝息を立てていた。まず志之武の手から荷物を取って降ろし、次いで本人をソファにゆっくりと降ろしてやる。
それから、さすがに涙と鼻水でぐっちょりのシャツを脱ぐと、着替えを取りに寝室へ入っていった。
ついでなので、もう出かける予定もないことだし、ハウスウェアに着替えると、今日着ていた服を抱えて、征士はようやく寝室を出る。
居間には、蛟が顕現していた。蛟の腕に抱かれて、志之武がやはりすやすやと眠っている。
「蛟? どうした?」
『人肌から離れて目を覚ましたのだろう。ぐずっておったので、また寝かしつけてやったところじゃ。征士よ。幼子から目を離してはいかんぞ』
「……わりぃ。サンキュ」
さすがに、前世を含めて子供の世話をしたことのない征士である。志之武の式神に咎められて、素直に頭を下げた。うむ、と頷き、蛟が志之武を手渡してくれる。
『そろそろ起こしたほうが良かろう。飯を食わせて寝かせた方がよい。この術は、身体に負担をかける。栄養の補給と睡眠が必要じゃ。遊び相手なら呼ぶが?』
「そう? じゃあ、お願い」
そうやって好意に甘えられるのは、こうして式神を操ることができないはずの志之武を助けに来てくれる彼らだからだ。他の一般的な式神ならこうは行かない。
征士にお願いされて頷いて、蛟はすっと姿を消す。それは、おそらく同じく志之武の式神であり、今の志之武に歳の近い者たちを呼びに行ったためだ。その間に、征士は志之武を起こしにかかった。
「しのさん。起きて。ご飯にしよう」
「……ん〜。もぉ、あさぁ?」
「まだ夕飯食ってないだろ?」
めちゃくちゃ寝ぼけている志之武が可愛くて、目尻が知らず知らず垂れてしまう。それから、そうやって突っ込んで、クックッと笑った。
「ほら、起きて。飯作るから。紅麟が遊びに来てくれるぞ」
『うむ。遊びに来たぞよ』
立っている征士の腰辺りから、聞きなれた少女の声が聞こえて、征士はその彼女を見下ろした。彼女は彼女で、征士の腕の中にいる、面影だけは志之武な幼児を見上げ、さすがに一瞬驚いた表情をした。それから、何故か嬉しそうに笑う。
『本当じゃ。志之武は子供の時から愛らしかったのじゃなぁ。ほうれ、志之武。紅麟と遊ぶのじゃ』
蛟に聞いては来ているらしい。そう言って、紅麟が志之武に手を伸ばした。志之武も、紅麟の声に気がついて、目を覚ます。
「二人で大人しく遊んでてくれよ」
「はぁい」
『わらわに任せよ』
さすがに、今の志之武よりは紅麟のほうがお姉さんである。えへん、と紅麟が胸を張った。
神獣は、基本的に霞を食べて生きている。だから、人間の食事は摂取することが出来ないのだが、紅麟の場合、普段付き添うために赤い猫に変化をするため、その姿の時は食べ物を口に入れることが出来た。
従って、征士が幼い志之武と食事を取っている間、彼女は志之武の足元で皿にもらったミルクをぺちゃぺちゃと舐めていた。
この姿でしゃべられると、それはそれで不気味なのだが、不思議なことには慣れてしまった征士は、しゃべりだした猫にも特に取り乱さない。
『というわけでな。この術は、便利そうに見えてなかなかに不便なものなのじゃ。だからこそ、わらわは蛟にどうして止めなかったかと思わず問い詰めてしもうた。悪いことをしたのう。戻ったら謝らねば』
「そうだな。蛟自身は気にしてないだろうけどな」
『うむ。それはわかっておる』
さすが、三百年近く式神仲間で付き合っているだけのことはある。互いに性格を把握しているわけだ。紅麟は、そんな風に殊勝な表情で頷いた。
今日の夕飯は、子供も大好きな、甘口のカレーだ。どうやら志之武の口にも合ったらしく、自分の式神と相棒がしゃべっているのを聞きながら、夢中でスプーンを口に運んでいる。
途中で、食べ物が軽く詰まったらしい。けほけほ、と咳き込むので、征士が慌てて背中をさすってやった。
「大丈夫か? そんなに慌てないでゆっくり食べろよ。なくなったりしないから」
「うん。でも、おいしいんだもん」
「そうか。だったら、良かった」
反対に、征士の口には少し甘ったるいのだが。なにしろ、甘口のカレーなど買い置きしているわけもなく、仕方がないので薄口に作って蜂蜜をたっぷり追加したのだ。しかし、この子に喜んでもらえれば、そんな苦労も報われるというものである。
食事を終えて、征士が後片付けをしている間も紅麟は志之武の遊び相手をしてくれて、それから名残惜しそうに精霊界へ帰っていった。
「せぇさん。お風呂、一緒に入ろ?」
「あぁ。そうだな」
バスタオルを抱えて征士を見上げる志之武を抱き上げ、征士は見ていたパソコンの電源を切る。隣でパソコンのゲームに熱中していたはずの志之武である。まぁ、大抵次の行動を促すのは志之武の方なので、特に意外ではないのだが。
「たまには洗ってやろうか」
「ぼくがせぇさん、洗うのぉ」
「今のしのさんには、俺はでかいぞ」
「やなのぉ?」
「いや。嬉しいよ。じゃあ、洗いっこするか」
「うんっ」
まるで本当の子供のように無邪気に頷いて、志之武は足音を立てて先に風呂場へと入っていった。あとを追いかけ、征士はなんとも幸せな気分になる。
なにしろ、普段なら恥ずかしがって言わないようなことが、志之武の口から出てくるのだ。幼児化したことによって、羞恥心が少しだけ抑えられている。それも、素直なことは良いことだ、と征士はけっこう満足げだ。
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