弐の8




 二人が奥の間に戻ると、そこに三枚の畳が用意されていた。すぐにでも廃棄処分になりそうなぼろぼろの畳である。よくこの城内にあったと征士郎がしみじみ感心してしまったくらいだ。

 この畳、志之助が勝太郎に言って用意してもらったものだった。奥座敷の畳を傷つけるのは忍びないから、廃棄予定の畳を用意してもらったわけである。その畳の上には五本の竹枝と長く細い注連縄が乗っている。城中に祭事用として保存されているものだろう。

 志之助が征士郎の背におぶさっているのを見て、紅寿が駆け寄ってきた。

「祥春殿、大丈夫ですか?」

「志之助です。もう坊主じゃないんですから。ありがと、せいさん。降ろして」

「立てるか?」

「ん。だいぶ感覚戻ってきた」

 なら、と征士郎が腰を屈め、そこから志之助が下りる。ふらっとよろめいたのに紅寿が手を差し出し、征士郎ががしっと力強く支える。手を貸し損ねた紅寿が、出したその手のやり場に困って自分の着物を握り締めた。

 志之助が紅寿よりも征士郎の腕を頼ったのが、なぜか紅寿の心にちくりと傷を作っていた。志之助には別に意識したつもりもなく、とっさに征士郎に手が伸びていた。体格的には征士郎も紅寿もどっこいで、どちらも志之助の手からは等距離にあったのだから、志之助が手を出した相手こそが志之助が心を許している相手でもあったわけなのである。

 やはり、何年も前に一時手を結んだ相手と現在の相棒とでは、争いようがなかったらしい。志之助の無意識の行動が、征士郎が感じた嫉妬を無意味なものとしていた。

 しばらく征士郎の腕にしがみついてじっとしていた志之助は、その腕からそっと離れて、少し離れたところからこちらを観察している将軍に向き直ると、ひざまずいた。

「上様にお願いがございます」

「うむ。くるしゅうない、申してみよ」

「では、お言葉に甘えまして。御老中に席をはずしていただきたいのですが、ご命令いただけますか」

 とんでもない、と老中松平定信は首を振ったが、将軍家斉はその松平定信を見やると、頷いて手を振った。家斉に命じられれば異議を唱えることはできない。仕方なく彼は立ち上がり、そこを出ていく。

 出ていった襖が閉まると、それを待っていたように赤い光が庭の方から延々開け放たれた部屋を通って飛び込んできた。その光は、志之助の背後までやってきて止まる。

『志之助。わらわに守れと申したはこの男かえ?』

 赤い光の中から現われたのは、まだあどけない唐国の貴族が着るような濃い紅色の見事な着物を身にまとった女童だった。やわらかそうな上衣の上に艶のある美しい紅色の髪が波打っている。頭には装飾の施された冠をかぶっていた。髪と瞳の色が鮮やかな紅色をしている他は、京の公家を捜せばいそうな上品な少女だ。

「ええ、そうですよ。……ええと」

『紅麟じゃ。あとの二人は蒼龍と鳳佳。この者、この国の主人か?』

「そうですねえ。だいたい、そんな所でしょうか」

 本当の主人は京の都にいる帝だが、実質この国を支配しているのは征夷大将軍である家斉で。今はそんな説明をしている時間はないから、そんなところでいいことにしておくことにする。

 この少女、先ほど屋根の上にうずくまって休んでいた赤い麒麟だった。志之助の式として、たった今契約したばかりだ。一介の人間が使役するにはあまりにも巨大な力を持つ霊獣で、だから志之助もまだ言葉遣いに気をつけている。そのうち敬語を使わなくなったら、その時こそ本当に式神として使役しているといえるのだろう。

「上様。私の式で紅麟と申します。御身をお守りいたします。国王に仕える霊獣と知られる麒麟の中でも高位の紅麒麟の子でございます故、少々のご無礼はお許しくださいますよう」

『うむ、許せよ』

「……紅麟」

 志之助には珍しい呆れ声に、うふふと紅麟が楽しそうに笑う。その表情を見て、家斉は納得したらしい。おいで、と紅麟に手招きをしてみせた。紅麟もそれに誘われてひょこひょこと家斉に近付いて行く。

「じゃ、頼みましたよ、紅麟」

『心得た』

 ちょこんと家斉の膝の上に腰を下ろして、紅麟が極上の笑みを見せる。家斉もまた、自分の子を抱くかのように紅麟にやさしい目を向けていた。どうやら両者の相性は良いらしい。

 身を守るべき人の身柄を確保したことを確認して、志之助はにっこり笑うと後ろを振り返った。志之助の背後では、征士郎と紅寿が見えない火花を散らしあっていた。本人たちは自覚していないようだが、お互い一方的に睨み合っているのである。原因である志之助は、その理由がわからないで首を傾げる。

「せいさん、竹中殿、手伝ってください」

「おうよ」

 答えて一瞬紅寿をにらみつけた征士郎が、志之助に近づいていく。一瞬遅れて紅寿も続いた。

 何故いきなりこんなに仲が悪くなっているのか不思議で仕方がない志之助は、とりあえず気にしないことにして古い畳の前にしゃがみこんだ。二人に指示して三枚の畳を長方形に並べ、二枚の畳の間に竹枝を一本立て、それに細い注連縄の端を結びつける。束になっている方の縄を持って枝のまわりを一周すれば円が描ける。志之助が描きたいのはまさに円だった。

「畳、動かないように両側から押さえてて。ちょっとでも動いたら失敗だから、ちゃんと押さえててよ」

 いつになく真剣な表情をする志之助を見て、征士郎はつられて真剣に頷いた。紅寿はというと、あっさり了解する。このあたりに、隠密稼業と剣客の意識の違いが現われるらしい。隠密稼業は常に神経を張り詰めているため、真剣になっても普通に見えるのである。いや、紅寿が真剣になっているのかどうかは怪しいものだが。

 反発しながらも、二人とも自分を助ける気はあるらしいと感じて、志之助は懐に忍ばせてあった愛用の匕首を抜くと、畳に突き立てた。柄に手元の注連縄を、竹枝に縛った方からゆるんでいないように縛り、畳に突き刺したまま体重をかけて引っ張りはじめる。想像以上に力がいる仕事だったらしく、紅寿も真剣な面持ちになった。志之助はまるで畳を丸くくりぬくかのような勢いで、円を描いて畳を傷つけていく。紅麟を抱いた家斉は、志之助の行動にただ首を傾げるばかりだ。

 円を描ききると、支柱にしていた竹枝を引っこ抜き、何やらわけのわからない行動をはじめる。円上に、どう見ても適当にとしか思えない間隔で竹枝を突き刺していき、そこに注連縄を引っ掛けていく。まるで魔法陣だ。まだ手を離して良いと言われていない征士郎と紅寿は、その志之助の行動を間近から不思議そうに眺めている。

 しばらくして、まだしばらくは重労働がなさそうだと判断した紅寿が口を開いた。

「中村殿と申されましたか」

「征士郎でいい。ここで中村は兄上のことであろう」

 武士であるつもりはないと暗に告げて、征士郎は再び素っ気ない表情を見せる。それは気にせずに、紅寿は言葉を続けた。

「そなた、志之助殿の……イロか?」

「……はあ?」

 一瞬意味がわからず、征士郎はぼうっと紅寿を見つめ、それから眉をひそめる。志之助はというと、耳にした途端に一切の動きを止め、やがて脱力したようにぺちゃっと尻をついた。珍しくせっせと仕事に励んでいるところに、いきなり力が抜けるようなことを言われて、反論もできなかったらしい。やがて、言われた言葉の意味がわかってきて、征士郎はびっくりして志之助と紅寿を見比べる。

「なんだ。違うのか」

「あ、ああ、当たり前でしょうっ!」

 何てこと言うんですかいきなりっ、と抗議する志之助の声が裏返っている。志之助の気が散ってしまっていた。征士郎は征士郎で、志之助をただ見つめるしか能がなくなってしまっている。

「私ですら関係を結んだというのに、二年も付き合ってまだなんですか?」

「お、俺たちは相棒なんですっ。身体売って作った絆じゃな……」

 途中まで言って、そこに将軍も式神もいることに気づいた志之助の言葉が途切れる。くっくっと紅寿が楽しそうに笑いだす。家斉も、なぜか平然としていた。紅寿からとんでもないことを聞かされていたのかもしれない。そう思うと、いくら志之助でも恥ずかしくて顔をあげられなくなる。

 それは、志之助が一生の中でもっとも恥じていることだったのだ。征士郎でさえ、何だか遠慮してしまって詳しくは聞いていない話だ。今の志之助の力が、高野山の坊主や陰陽師に身体を好きにさせることによって得たものだということは聞いていても、その手の話にはどうしても踏み込めなかったから。

「……そういう話、この仕事が終わってからにしませんか?」

 仕事がはかどらない、と大きな溜息をつく。そして、一度頭を振って意識を集中すると、再び仕事に戻った。

 志之助が怒りださなかったことに、征士郎は紅寿の言葉が真実であることを悟って、軽く目を伏せる。二年という年月が、急に希薄なものに感じられてしまったのだ。征士郎の心の変化を敏感に感じ取った志之助も、どうやってフォローしたらいいかわからず、黙り込んでしまう。結局、黙々と作業を続けることになった。話を切り出した紅寿も、どうやら志之助を窮地に立たせてしまったようだとわかり、ばつが悪そうな顔をする。

 出来上がったものは、畳に彫り付けられた陰陽紋と、注連縄で作り上げたいわゆる晴明印と呼ばれる五芒星だった。その中心に家斉と紅麟を座らせ、絶対に注連縄の外に出ないように厳命する。ちょうどそこへ、炒り豆を山と盛った高杯を掲げて、武士の命である大小を脇に抱え、征士郎の兄勝太郎が戻ってくる。何の傷もない残った一枚の古畳の上にそれを置き、志之助は仕上げとばかりに抜き身の太刀と脇差をその横に突き立てた。

「勝太郎殿。庭の警備をよろしくお願いします」

 頷いて、勝太郎は入ってきたところからまた出ていった。次第に庭の方に大勢の人の気配がし出す。武装した侍たちの姿が、見え隠れした。

「せいさん、竹中殿。上様を、頼むよ」

「しのさんは?」

 まるで、ここにいるつもりはないというような発言に、驚いて征士郎が声を上げる。志之助は、征士郎の顔を見ることもなく、ただうつむいて、くすっと笑った。

「ここにいちゃ、みんなに指示できないからね。庭に出てるよ」

「俺の手は、いらないか?」

「……いらない」

 消え入りそうな声に、征士郎は不安げに眉を寄せ、志之助の後ろ姿を見つめた。志之助は足取りだけはしっかりと、庭の方へ去っていく。

 暗い庭へ出ていった志之助の姿が闇に紛れて見えなくなって、征士郎はまたうつむいた。少なくとも、志之助と紅寿の関係は、征士郎は知らない。これは事実だ。おそらくもう二度と会わないと思っていた志之助は、話す必要もないと思っていたのだろう。別に恋人同士というわけでも夫婦というわけでもない、男と男の友情で結ばれた仲である。過去の交友関係も肉体関係も、知る必要はなかったのだ。今までは、まったく。これからも、知る機会はないはずだった。

 征士郎は、動揺している自分をもてあましていた。何故動揺しているのか、自分で理解できない。志之助が自分の身を守るために自分の身体を売っていたことは、かなりはじめのうちから知っていたことだ。その過去の相手に実際会ったからといって、動揺する理由にはならない。過去は現在には関係がない、はずなのだから。

『竹中というたのう。わらわはそなたが大嫌いじゃ。わらわの主人を泣かせた罪は重いぞえ。覚悟しておくが良いわ』

 家斉の膝に鎮座ましましていた紅麟は、そう言ってきつく紅寿をにらみつけた。可愛い顔をして、にらむとなかなかに迫力がある。恐怖には耐性のある紅寿も、一瞬ひくっと顔を凍りつかせた。反対に、征士郎には優しい目を向けてくれる。

『征士郎は、少し鈍感なところがあるのう。仕えがいのある主人に巡り合ったものよ』

 わらわは幸運じゃ、と紅麟は複雑な顔で笑った。紅寿に対する怒りと征士郎に対する焦れったさと志之助に仕えられる幸せとこれからへの楽しみと、ないまぜになった笑いだ。

『追いかけておやりよ、征士郎。志之助はそなたの手を待っておるのじゃ。自分に正直になれぬ不器用者じゃての。ここはわらわに任せて、はよう行きやれ』

 さっさと行けと追い払うように、紅麟がひらひらと手を振る。それに追い出されて、征士郎は足取りも重く庭へ向かった。残った紅麟は再び紅寿を見上げ、ぷいっと外方を向く。その膨れっ面は、彼女がまだ子供であることを証明しているようだった。





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