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 そのとき、志之武の自室の戸を叩く手があった。

「志之武。わしじゃ。入れてもらえんか?」

 それは、土屋の家を出て行こうとしていた自分を許してくれた、祖父の声だった。

 恐る恐る開けた戸の先には祖父一人で、少しほっとする。
 道を譲った志之武に反応して、祖父はするりとその隙間をすり抜けた。

 祖父が戸を背に座ったので、志之武は向かい合ってそこに正座した。足を崩すよう指示されて胡坐に変更。

「身体は、大丈夫か?」

 まずそう尋ねられたことで、この祖父は父親に何をされているのか知っていることを悟った。少し恥ずかしくて頬を染める。
 こくり、と頷くと、ほっとしたように笑ってくれた。

「せっかく逃げ出したのに、大変だったな。済まないね、助けてやれなくて」

「いえ。当主様にはお立場がありますから」

 それは、本気で思っていて言った言葉で、祖父は少し辛そうに目を細めた。それはつまり、期待していない、と受け取ったようだ。
 そういう意味ではなかったのだが、訂正する必要もないことだろう。

「土御門に身を寄せているんだね」

 まるで、ついさっきはじめて聞いたような、そんな言い方に、志之武は少し驚いた。
 勝太郎がそうなのだから、勝太郎についていった自分もそうだと思われていて良いはずなのだが。

「ご存知ありませんでしたか?」

「いや、身を寄せるならそのくらいだろうとは思っていたが。勝太郎のことだ、一年くらいは何もさせないものだと思っていた」

 それは、状況が許せばそうだったはずで、志之武はくすりと笑った。

「叔父様も、僕も、そのつもりだったんですけれど。父の追っ手を避けるためにやむを得ず。
 でも、今はそれで良かったと思っています。地に足が着いて、なんか、やっと、生きてるって実感したような気がします」

 それに、好きな人もできたんですよ。そう、ついでのように言って、志之武は実に幸せそうに笑った。
 それは、そもそも元から好きな人だったわけで、別に新しくできたわけでもないのだが、再会できたのはやはり土御門のおかげだ。

「そうか。好きな人ができたか。それは良かった。元気でやっておるのなら安心じゃ」

 そう、ほっとしたように笑って、優しい目で孫を見つめる。
 それから、ふいにまじめな顔をした。

「さっき、勝太郎から電話があっての。わしに、土御門の当主と会えというのだ」

「麟子様と?」

 何故そんな会見を設定するのか、しかもそれを何故祖父は自分に言うのか。
 わけがわからず、志之武は首を傾げた。志之武の問い返しに、そうだ、と祖父は深く頷いた。

「志之武を、次の当主に据えてほしい、ということであった。そなたの父上よりもよくやってくれるだろうと。
 土御門の当主に、気に入られておるようじゃな。良いことじゃ。いつまでも仲違いをしているのは、双方にとって望ましいことではない。
 それに、我が息子ながら、あやつが当主では先行き不安でおちおち隠居もできん。
 その申し出は、こちらとしても願ってもいないことで、反対する理由はないのじゃが、いかんせん、あの息子を廃嫡にする理由も思い当たらぬ。
 さて、どうしたものかの」

 土御門からの申し出なので、直接会って直々に申し出たい、ということらしい。
 それはきっと、彼らが考えてくれた、自分を助ける手なのだろう。志之武としても、その提案に従うことに吝かでもないのだが。

 一瞬驚いたものの、何事か考え込んでしまった孫に、当主は何故か嬉しそうに微笑んでいた。
 出て行く前は見られなかった生気が甦っている。それだけでも、逃がした甲斐はあったというものだ。
 これでついでに土御門との和解の道を作ってくれれば申し分なかったのだが、それはこれから自分で切り開くことになりそうだった。
 しかしそれも、この孫がきっかけを作ってくれた。まったく、誇れる孫だ。

 そんな孫だからこそ、その子を苦しめる息子の存在が、許せなくなる。
 感情的に動いて良いのならば、土御門当主に言われるまでもなく、とっくに息子を廃嫡にしているところなのだが。

 突然、戸が二回鳴った。誰かがノックをした音である。
 続いて、女性の声が聞こえてきた。

「二三子です。当主様はこちらですか?」

「うむ。わしはここじゃ。どうした?」

 二三子らしくない切羽詰った声で、志之武も思わず身を固くした。
 普段どおりに振舞える当主には、まだまだ敵いそうにない。

「管公がお出ましですっ。このお屋敷の上空に」

「何とっ!」

 それは平静でいられる事態ではなく、志之武が慌てて自室の窓を開け、上を見上げた。
 庭にはたくさんの構成員がたむろしていて、一様に上空をあんぐりと口を開けたまま眺めている。
 当主も、志之武の背後から現れて、一緒に上空を見上げる。

 そこにいたのは、紛れもなく、日本二大怨霊の片割れ、菅原道真の巨大な姿であった。





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